心のシャドウを認めること、純粋な気持ちを取り戻すこと

"earth in us. ミニマリスト"のブログ投稿「心理セラピストに教わった「心の急所」を減らす技術 ― 心のシャドウとは何か?」を読んでみた。キーとなる部分をコピペして考えてみる。

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 「それが、傷つく原因だ。君は自分の"シャドウ"を通して、世界をみている。だから、心はいつまでも休まることを知らない」
 「シャドウとは、君が知らず知らずのうちに抑圧している"後ろめたい罪悪感"だ。 かの有名なスイスの心理学者ユングが発見したものだ。」
 「他人の言動に傷つくのは、君自身がそれについて罪悪感を持っているからなんだ。…」

 「私たちは毎日、理想と現実のハザマを生きている。 "こんな風に見られたい!"と願う一方で、不完全でどうしようもない自分もいることだろう」
 「たとえば、もっと成功して自信を持ちたい自分と、全然そうじゃない自分。
 とっくに結婚して幸せな家庭を築いているべき私と、それには程遠いミジメな私。
 仕事がデキて頼りにされている私と、ずさんでグータラで信頼されてない私。
 思いやりと感謝で生きたいのに、すごくワガママで自分のことばっかりな私。
 善人でありたいのに、心のなかで人のケチばかりつけている自分。」

 「目標や、あこがれの姿があるというのは、良いことだ。 だけど、だんだんと"理想的じゃないダメな部分"を、自分の奥底にねじ込んでフタをして抑圧し、私は"完全に理想的な自分"であると正当化して生きてしまうと、シャドウが形成されてくる。」

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ブログ中では「ダークサイド」という言葉で示されていた。自分は最近考えていた映画「魔女の宅急便」での映画のテーマも、このブログの記事内容と重なるような気がした。私たちは毎日、理想と現実のハザマを生きている。 "こんな風に見られたい!"と願う一方で、不完全でどうしようもない自分もいる。

そもそも主人公キキの魔法が使えなくなったのは、トンボと飛行船を見に行った後、トンボの友人たちと会った時にキキ自身が嫌な気持ちになって以降である。一人で歩いてパン屋の屋根裏部屋に帰ってきたとき、キキは街の女の子のこともトンボのことも自分のことも嫌になっている。その後、ジジの言葉が分からなくなり、飛べない状態になってしまっている。魔法がものすごく弱くなっているのである。

われわれ大人も、こうありたい自分とそれになりきれない自分が共存している、この現実を突きつけられた時、周囲の人々のことも自分のことも嫌になって、つまりシャドウが形成されてくる。魔法が使えなくなる、というのは「物語」上であるが、シャドウは人々の力を減退させてしまう。理性、感性、精神力、社交力…

人間には、直感的に判断して波に乗る性質も必要だし、情報収集と解析で物事の本質を捉え、さまざまな場合を想定して手を打ったり策を考えたりする性質も必要である。私事をいうと今、「直感的に判断して、波に乗る性質」が自分に必要なのだと思っている。

だが自分は今まで理詰めで判断するということばかりをし続けてきた。突然、直感的に動いたり出来ない。正確に言うと「直感を良い状態に保つノウハウ」を知らないし、「直感の波のようなものがどのようなもので、どのくらいの影響力を持っているのか」を知らない。ひとつ考えていることには、直感に従ってみるという事は究極的には、自分を信じてみるということだろうし、他者に影響されない強い自分の心を持つことだろうし、自分の盲目的な執着や思い込みから自由になるということである。

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ブログはユングの言葉で締めくくられている。「「善であるよりも、欠けることない自分でいなさい」と。 不完全で未熟な部分もふくめて、かけがえのない「自分らしさ」だ。 シャドウを認め、あがない、手をつないで、オープンにしよう。 そうすれば、やがて影に光が指すだろう」

それと同時に、「再び純粋な気持ちを取り戻したとき」、不思議な力が僕らを救ってくれるかもしれない。

心理セラピストに教わった「心の急所」を減らす技術 ― 心のシャドウとは何か? : earth in us.
aromaphilia: 魔女の宅急便、という「おとぎ話(=昔話)」(当ブログ関連投稿)

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