自分の仕事は何なのだ

(今回は私的なことを話す)小泉ニロについて調べなおしたら、この人すごい勢いで変わってゆく人だった。しかもその局面その局面できちんと仕事を残している。音楽活動はしているがアドリブ演奏や生演奏への飛び入りをメインにするようシフトしていっているみたいだし、ラジオ出演や陸上競技への参加をネタにした雑誌編集や執筆活動へと仕事をシフトさせているようである。

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今、自分の為さなくてはならないことは何なのだ?多分書くこと、考えること、調べること、人に話すこと、人に会うこと…その結果としてのコンスタントな研究があるのではないかと思う。だが漠然と「研究」というと誤る、二つの面が存在していると思うのだ。
• 一つのことを掘り下げること、細かなデータを取得していってキチンと発表できるスタイルにまで研究の形を整えること。
• 概要を集めてきて広く見る事、先を見通すこと、それらの概要を簡易に人に対して話せること
ゆくゆくは自分がどちらに傾倒しているのかを理解する必要があるのだが、今はたぶん両面をしなくてはいけないと思っている。とにかく既存研究に片っ端から当たること。研究は多分野に跨っている。それらを出来るだけ広く見、出来るだけ相互関係を知り、理論的な面も掘り下げておく。今為すべきは、片っ端から本を読み、内容を纏めること、自分の解釈を出来る限り形にしておくこと。最終的には「香りの実態」を学術的に捉え解釈して形にしてゆけるように準備しておくことなのだ。

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せっかくなので、以前書いていたことを転記しておく。
「日々何を思考し、何を得るのか。否、日々何を思考して、何を得たのか。それを記録し、結晶化してゆきたいものである。どこまで出来るのかは分からないが、飛び飛びでも良いからという思いで、日記を再びつけ始める。(2004年04月04日、以前のホームページを書き始めた理由)」
「自分という人間は、何か考えを持つためには自分自身が書かないと考えに形を与えられない性分のようです。最初は微細な断片を寄せ集めて作っただけだったし、ただの物真似でしかない記事もあったし、考えが煮詰まりきらない記事のまましかアップできないときもありました。しかし、書く事によって、思考や志向が、情報や風や空気が、繫がり始めてやがて自分の核であり殻である何か形あるものへと繋がっていくのではないか、という実感を得られたのも確かです。(2010年10月24日、blogger一本になる際、旧ホームページを閉鎖する際に話したこと)」

小泉ニロ - Wikipedia
ニロのドイツ便り
小泉ニロ - livedoor Blog(ブログ)

プリントゴッコに関して少し調べる

日本という国において、2011年は大震災が大きな変換点になったと思う。自分たちの近くに居る人、近くに居るべき人の大切さ、それを如何に守るのかということ、そしてそれを以てしても依然として人の命の脆弱なものなのだということ、を感じさせた。今年を象徴する文字は「絆」1だそうだ。東北・北関東に親族は居ない自分にとっても、震災の及ぼした影響はかなりあったと思う。人の絆を意識した。自分は独りで闘っていると思っているが、そんな自分にすら何らかの絆をもって緩やかな繋がりを持っているのだ。

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12月も下旬に入って、意識に上ったのは久しぶりに年賀状でも幾つかは書いてみようかなという思いだ。

年賀状は自分は大学に入った年、2000年、から殆ど書かなくなった。大学に入学した当初、PHS7を契約し、PHSで携帯メールが送受信できるようになり、なし崩し的に年賀用を作成せず新年挨拶メールを送信するようになったからである。その数年前からPHSが一般若年層に普及し始めており、自分が大学に入った直後は若年層を中心とするボリュームゾーンがPHSからMova8へ移行する時期であった。この時期movaではドコモがi-mode6のサービスを開始し、「携帯メール」がどんどん使いやすくなっていた時期であった。しばらくして絵文字などのサービスも開始され、日本では直接相手も電話番号宛に送るSMS9ではなく各電話会社のホストコンピュータのサービスする携帯メール(i-modeメールなど)がメジャーになった。

どうやって年賀状を作っていたのか?思い起こしてみると、プリントゴッコ2-5なる装置を使っていたことを思い出すに至った。

プリントゴッコは、ロウを流したメッシュにカーボンで書いた原稿を圧着しマグネシウムランプの熱で原稿どおりにメッシュ上のロウを溶かし原版を作成、原版の上に好みの色のインクを載せ、印刷するという装置だ。原理的にはガリ版印刷やシルクスクリーンの類縁だ。実はプリントゴッコは2008年に本体製造が中止され、現在も細々と続いている消耗品などのサポートも2012年に終了するとのアナウンスが発されている。それでもこれが自分にとっての年賀状準備だったのだなぁ、としみじみ思う。

小学校の頃だったと思うが、絵柄原稿集(それを切り抜けばカーボンで印刷してあるからゴッコの原稿に使えるというあれだ)とか、パールの入ったインクや新品のランプやメッシュを買ってきて、原稿を作り、あのオレンジ色の装置をぎゅっと押すとバシャッとマグネシウムランプが光ってプリントゴッコが始まるのだ。子供が関わるのは、インクを載せて何枚か刷るところまでで、後は父がヨナヨナ作っていた気がする。インクを調製してオリジナルの色を作ったり、スクリーン上に縞状に並べて爪楊枝でさらに変化を加えたりという裏技もあった気がする。自分の家族は念の入ったことはしなかった家族なのだが、原稿を2枚以上に分割して印刷するとさらに完成度が高くなったりしたはずだ(例えば輪郭線と塗りつぶしの色を綺麗に出したいときとか)。

そんなことを思い出しながら、「自分にとっての年賀状ってあれなんだなぁ」という感じと、「アナログにしてクリエイティブ(笑)」という感じが心の中に浮かんだ。あれって結構味のあるヤツも出来るし、職人的に極めたら完成度の高いヤツも刷れるのである。もっと時間のある人間だったなら、触るのになぁと思う。

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自分の誕生年は1981年。プリントゴッコの登場はwikipediaによると1977年。正に自分などはプリントゴッコで育った世代である。どおりで自分には、子供時代プリントゴッコ以外の年賀状の準備をした記憶がない(高校に入った頃か、大学にあがったころか、余りにも時間がなく判子作成か何かをした記憶はある)。プリントゴッコでの年賀状作成は、日本経済の上昇期に始まり、バブルの時代に最盛期を迎えている。みんなアマチュアイズムにあふれ、上昇の雰囲気に満ちていたのかもしれない。会社のみんなに年賀状を出しまくった時代、そして一億層中流になった時代だったのだろう。

参考;
1.2011年の漢字は「絆」 「災」「助」など続く  :日本経済新聞
2.プリントゴッコ - Wikipedia
3.Save Gocco - Print Gocco | SaveGocco.com
4.プリントゴッコ初期の評判 その1 ~消耗品販売終了を惜しんで~: けふこの本棚と文具の引き出し
5.ポストカード作家 長谷 祐史: プリントゴッコ
6.iモード - Wikipedia
7.ドコモPHS - Wikipedia
8.mova - Wikipedia
9.ショートメッセージサービス - Wikipedia

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(以下独り言)

しかしなんか考えさせられる。この年の瀬に、感傷を感じて、「絆」を感じたくて、思い出したのが「戦後の核家族化に従って登場してきた年賀状」と「国民総中流を象徴し、バブル崩壊とともに消えていったプリントゴッコ」だったとは。確かにあの暖かいコタツの中に足をつっこみながらぺたりぺたりとやった年賀状作りは自分にとって楽しかった。そして今その「アマチュアイズムの延長」に安心感と幾許かの芸術性を感じて「価値ある復活させたいもの」として自分はそれを思い出している。確かに時代はハイエンドを必要としない、もしかするとハイエンドに疲れた時代になっているのかもしれない。しかし自分もまた自分の足跡を再び辿る安心感、に戻りたい感覚を持っているのかもしれない。ま、しばし休息をして再び走り出したら、そんなものは忘却の彼方に行ってしまうのかもしれないが。