芸術作品、感覚の制約と芸術としての完成度①

この前、ちょっといきさつがあって知り合いになった渋谷松涛のギャラリー「アツコバルー」。直近で出されているコンテンツをみに行った。「宇宙」をコンセプトに、様々な分野から人が出し物を代わる代わるやるようなイベントである。音楽家の方と南極基地の研究者の人と建築デザイナーの出身の方のトークイベントに合わせて訪問してみた。コンテンツについてはほぼ完全に専門外だったのでコメントは特にないのだが、それでも、音楽家のかたの話にはちょっと考えるところがあったので以下に書いてみる。

音楽家の人は作曲を主にやっており、もっと大きい組曲も作ってみたいらしいのだが、作成した曲に関してのエピソードなどを話していた。作曲、というよりは作品になるのだろうが、それはサラウンドとして作成しているという。この辺は研究室の仲間のしている仕事と似ている。研究室の仲間は作曲家の経歴を持っているのだが、作品はサラウンド作品として作成しているのである。サラウンドというアイディア自体は割りと古くからあるものの、作品を作って行く手法はあまり明確に確立していないのではないかと思われる(自分は専門外なのであまり詳しいことは判らないのだが)。機材がなかなかないこと、フォーマットが未だに流動していること、実際の作り込みに関して議論してゆけるほどには作品例がないこと、が原因であろう(この辺のところは要調査だが)。

サラウンドはアナログ時代からフォーマットが現れては消えを繰り返している。初期の頃に現れたマトリックス方式(4ch)とパソコンを使用したゲームが隆盛 を極めた頃の5.1ch辺りが最も広く知られている方式なのではないか?家庭用AVアンプはもっと多チャンネルのものとして設計されているが、5.1ch ほどの広がりを見せているようには思えない。

音作りは現在においては2chステレ オにばかりノウハウのある状態である。サラウンドは映画効果音やゲームのための音響としてはそれなりに作られてはいるが、純粋な音楽、芸術としての録音の ための作品としては完成をしていないと思われる。ちなみに多チャンネルサラウンドは録音の時点から多チャンネルで録音を作成してしまう方法と、2chステ レオを再生時に何らかのアルゴリズムを使用してチャンネルにする方法がある。アルゴリズムとしてはTHX, dolby等の方法が有名だと思う(要調査)。前者は録音、ミックスが完全に確立していないこと、後者はピュアオーディオのための再生装置としては fidelity(=忠誠度)が不足しているように思われることが不満点だと思う。

オーディオはこれまで2chをモデルに発展してきた。戦前はモノラルのオーディオが一般的で、その後ステレオの音響が一般的になった。だが 一般的な感覚は多チャンネル方式が様々に提案された現在でも、ステレオありき、に留まっている。これはfidelityは低いという方向性である。そして たいした疑いも持たずに、低いフォーマットを設定したまま、その中でせっせと作品作りをしているかのようにも思える。

なお、サラウンドに近い印象で、もっとも完成した音楽体験ができる場はコンサートホールであるように思う。コンサートホールは明確に建造物である。建築あるいは空間があってはじめて、作曲者・演奏者による音楽作品自体と、音響場としての空間とが一 体化したとき、音楽体験が生まれる。だがサラウンド的な完成度が加算され芸術体験として完成する事はあまり意識されない。空間はあくまでも雰囲気であり、空気である。これを計算・設計したり、チューニングしたりすることは縁の下であり、意識されるのは舞台の上の音楽作品だけである。

そう考えるとサラウンドとしてのコンテンツを作成することは、音楽作品を作り出す事ではなく、それを体験する縁の下の部分、雰囲気とか空間とかをも含めて再現しようとすることである、とも言える。つまりサラウンドを取り扱うことはバーチャルリアリティの領域に入ってくるのかもしれない。

だがよくよく考えると、低fidelityなフォーマットで止まっていることは、そうおかしいことではないのかもしれない。劇場は舞台があって、観客はそれ を注視して観劇をする。ここには製作側と鑑賞者という2つのポジションがあり、鑑賞者の向く方向は一方向である。先ほど例にあげた音楽作品を鑑賞する建造物、コンサートホールにも明確に演奏者側と、観客席が存在し、鑑賞者の向く方向は一方向である。またPAを使用するコンサートの音響装置 も基本はステレオであり、追加されてもサテライトとして使用されるというものだ。これは完全な演じ手と客(悪く言えば傍観者)が別れているために、音響は 一方向で良いのだという帰決に起因しているようにも思う。

人間は架空のものは架空のままにして置きたいのかもしれない。架空というスタイルを守ってこそ、作品であり、芸術である、ということを前提にしたいのかもしれない。そのためにあ えてfidelityの低いフォーマットの中で作品作りをしているのかもしれない。現実感とほとんど同じ次元の仮想現実感が実現したとき、人間はそれをもはや架空の作品だとは思わないかもしれない。人間が創作物である作品に正常にのめり込むためには、低fidelityなフォーマットが必要なのかもしれない。

芸術作品というものは、完全に作り込むという点と、架空のものとして楽しむという点の二面を持つように思う。高fidelityな再現環境では鑑賞者は制作者から逃れられない。従来の作品とバーチャルリアリティの垣根は案外と高いものなのかもしれぬ。

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