ヘンリー・ダーガー展 「承認ゲーム」、ガラクタ、キュレーション②

現代という時代において、プロフェッショナルの作品よりも、内輪で楽しむためのアマチュア作品、従来は価値を見出されていなかった分野での作品つくり、自分のために創作する、他者に見せるためではない作品作りに重心が移動しつつある。もしかしたらキュレーターにより、時代のスポットライトが当てられルかもしれない。

だがスポットライトが当てられていない状況下では?

趣味で絵や音楽を作る人々、自分のように、確固とした立場を持たないブログ製作者などは作り続けても書き続けても収入には繋がらないし、見る人もわずかな家族や友人のみ、専門的過ぎる場合には自分しかその価値が分からないまま作成を続けている場合もある。そんな状況はヘンリー・ダーガーの作品製作の状況とほとんど同じである。これらはガラクタなのではないか?ガラクタばかりが、このヘンリー・ダーガーの死後アパートに残されたようなものばかりが、この世界を埋め尽くしてしまうのではないか?そう感じてしまったら?

そもそも芸術に限らず作品には2つの特性があると考えられていた。周囲に向けた発信と、自分の中で何らかのものを練り上げる過程だ。人間は感じ、考え、そして発信をする。理解のために必要な消化活動、理論的な思考、共感、自分の為している事は何なのか、成そうとしていることは何なのか、考え発信すべきではないのかと思った。

だがそのような対比は不要なのではないか?自分の発信するものを全て理解している必要などそもそもないのではないか?個人が自分自身をコーディネートさせ調和する必要がなくなりつつある、とおもう。コーディネートはキュレーターが為し、感覚と理性を摺り合わせて調和してあげればよいのだ。アウトサイドもインサイドも緩やかに繋がり、そのような区分けは無意味化する。

「個人の自由」とか「社会の承認」とかかつてからある成熟した社会人の特性全てを個人個人が内在化する必要性が低下しているのはないかと思うのである。緩やかな他者とのつながりの中で、自分の中で処理しきれない単発的な情報も、作品も、そして感情や感覚すらも発信することで意味を与えられたり、助けられたりしていくのではないだろうか?

ガラクタなのか作品なのか、周囲に向けた発信なのか自分の中で何らかのものを練り上げる過程なのか、その境界はどんどん曖昧になるだろう。人々の単発的な情報も、作品も、そして感情や感覚すらも世界の中に漂い始め、それらは発信者の意図からも理性からも感覚からも自由に、自由にくっついたり、意味でタグ付けされたりとクラスター化してゆくはずだ。そこには覗き見だとか恥だとか旧来の次元での感覚は薄れてゆくのではないか?

社会の総体として、より多くのものが理解され、より多くのものが共感され、知識が蓄えられ、「価値ある行為」が為されるのであれば、個人個人が他社の視線を内在化する必要性もないのかもしれないし、すべての人に承認される必要なんてないのではないか?「価値ある行為」と「空虚な承認ゲーム」という二項対立なのではないと思う。それよりも優しい関係を大切にしながら、社会の総体として多様性を保持し、より深く、より広く、より多角的な世界を作ってゆく方向へと向かっているのではないだろうか?

もちろん自身の理性、感性、知を高めて行くことは必要だ。そうすることによってより深く、より広く、より多角的な世界を作ってゆく方向へ貢献できるはずだからである。

参考
1.TAB イベント - ヘンリー・ダーガー 展
2.「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 - 情報考学 Passion For The Future
3.Amazon.co.jp: キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書): 佐々木 俊尚: 本

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