(4/7メモ)科学とかについて、考えていたもやもやを投げつけてみるメモ

(4/7メモ)
おもがたさんのことを受け、研究のありようについては、きちんと考えなくてはいけないし、自分のこれまでの経歴は、主に今理研にいるような純粋培養の人達 とはかなり違っており、より広く状況を俯瞰して判断するだけの多様性が分かる経歴なのだと思う。だからこそ、この理研の状況について考えていることをまとめて報告してやる必要がある。メディアはブログで良いと思う。だいたい、自分の意見を声高に主張する事が重要なのではなく、きちんと考えを練り上げること 自体、それが自分を作るし、自分の考えを練り上げてきた実績があること自体が自分をしかるべき場所へと上がる階段を示してくれる。
おもがたさんの問題点は科学的ではなかったこと、科学を構築するのが難しい時代になりかかっている事だろうと思う。その割に時代は結果を求めている。純全たるアカデミックでも、商売でもだ。

人間としての人生を全うすることと科学を作ることはなかなか両立しないことになったのだろう。科学をつくるためには、かなりの時間が必要である。これはト レーニング期間をかなり長時間しないといけないということだ。‎高度に分化した専門分野、それぞれの専門分野をマスターして、それにプラスAlphaの成 果を残すことは大変だし、能力を身につけたうえで、時間をかけて科学的検討を積み上げてやる必要がある。これを商売に転用可能な技術の形での再構築をする にはさらなる時間と労力が必要だ。多分一生涯かけてやる仕事になる。多くの場合、それまでの同分野の先輩が残した研究資産を使って研究を作って行く。しか も人間は生きていなくてはいけないので、その間の人生を誰かがサポートしてやる必要がある。

社会はそんな科学の世界が大変なものだとは思ってはいない。手品のようにささっと花が現れるわけではないことはなかなか理解されない。商売の世界は交換の文 化である。何らかのモノ、または権利、時には知見は対価を払って交換する対象なのである。‎だから科学研究に対価を払う限り、対価に見合った科学的知見が 生み出されなくてはいけないと考えてしまう。だが科学は科学的アプローチに従ってなされる採掘作業のようなものなので、土を掘ったからといって宝物が土中 から出てくるとは限らないのだ。研究者が一応生きて行かなくてはいけない費用も必要である。

理研という組織は何なのか?学生と研究者の境目はどこにあるのか?学生は手法の習得中の身分であり、研究者は手法を身につけた‎仕事をする身分にあるという ことは言えるであろう。理研にいるのは仕事をするべき研究員なのだろうと思う。とすれば、手法として必要なものを身につけていない研究員はそこで仕事をす るべきではないのではないだろうか?科学者としての必要な手法を身につけていなければ、その仕事は不十分な状況に陥ってしまい、その仕事の結果を受け入れ て新たな仕事をしようとする人にとっては迷惑な既製事実になってしまうであろう。

(昨日まで理研について、理学研究について、イノベーションに付いて考えていた。つづき)科学者というものは科学的手法によって現実から正しい解釈を切りとろ うとする者であろう。その仕事の成果は科学的な事実だ。科学的な成果を固定化するために必要なツールは論文であり、学会コミュニティにおける discussion(学会報告)である。このプロセスを経ることで、仮説は事実へと昇華し、このような事実を積み上げることによって構築された体系(脈 絡と続く科学の歴史の中で積み上げられた理解の集合体)に自分の名前を残すということなのである。(これを第一と考えているのであれば、非科学的な実験事 実の模造がいかに危険なことかわかるであろう、もちろん論文の発表や学会報告が科学的仮説の提案の場所であり、世界に名前を残せるのかも、競争下で行われ ていることを考えるとある程度のフライングあ含まれるのは至極当然のことである。だがそれも科学的良心の範囲内で行われなくてはならない)

さて身分を再び考える。科学の成果は誰のものなのであろう?組織のものなのか?それは誤りであると思う。科学は科学者によって作られる。共同作業はあって、 グループワークによって構築される作業もあるのであろうが、本質的には個人あるいは研究チーム長に帰属するものであると思う。また研究成果は投入した時間 や投入した労力、投入した資本に見合うだけのものが帰ってくるわけではない。したがって進捗管理は実際の話、できないものと考える。

別の観点から見てみる。進捗管理はできず、研究成果は確約されたものでもなく、しかしグループの皆が食べていかないといけない。それが科学を実際にやるもの の生涯である。それはやはりリスクの高いものだと思わざるをえない。それをしてまで科学をするその対価があっても良いのではないか、そう思える。だからこ そ結果のかなりの部分を研究者に与えてしかるべきなのではないかと考えるのである‎。それがないのであれば、研究者というものは牛舎に繋がれ牛乳を生産す るだけになってしまった牛か、カゴに入れられた卵を生むだけの鶏になってしまうと思う。と同時に、誰がその成果を上げようとする巨大な組織を束ねるのだ? 大企業なら正しいのか?国家なら正しいのか?イナ、すべての組織は過ちを犯すおそれがあるし、利権や既得権が‎強大な物になればなるほど、組織の死守のために自己のも他人のも、生涯を軽んじる輩がでてくる。本当にそれが正しい科学なのだろうか?

現状の回答としては、科学者の仕事は対価的に支払われるモノ、即日手に入れられる物ではない。自分たちは投げかけしかできず、それが歴史に残るようなもの だったのかどうかは、時代の経過と他の研究者のよる精査をへなくては明らかにならない。したがって研究者としては研究に対する姿勢、科学を哲学まで昇華し て体現している事が必要である。科学者は組織人ではないべきだ。だからこそ甘えは許されないのだし、きちんと科学を、社会を、世界を俯瞰して自分の仕事を作り上げていかなくてはいけない。

(科学について考えをまとめて行くのもよいが、自分の仕事に没頭して進めてゆくことも必要である。何ら かのプレッシャーがないと動けないというのもあるが、そこまでわかっているのなら自分で自律‎をして行くしかないのだ。仕事をしているのだから。日々の糧 のために働いているのではなく、野垂れじにをしたのだと思って、何らかの結果を時代に残したい、少なくとも何らかの結果が生まれ続ける場にいたいと思って いた、そんな仕事をしているのだから。…自戒的に)

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