澁谷達明「匂いと香りの科学」朝倉書店 (2007/02)1

澁谷達明2は結構高齢なはずの脳科学の先生である。彼は嗅覚と脳に関して大きな足跡を残してきた研究者である。大学機関を定年退職した後も、嗅覚味覚研究や香りの科学関係の出版に携わり、「香りの科学」を牽引してきた。

嗅覚に関するブレークスルー、つまり研究手法や考え方が一新された出来事は、1990年代のバックとアクセルによる嗅覚受容体3に関する遺伝子が見出されたことだと言えるだろう。これによって彼らはノーベル賞を受賞し、嗅覚の“生化学的な検出機構”に一定の結論が与えられたc。とくに2000年代に入った頃には、生化学的な現象解析には分子生物学が、認知機構などの解析には非侵襲的な脳科学的手法が用いられることが一般的となるようになった。

澁谷達明は主にこの「ブレークスルー」以前の時代、嗅覚に科学的にアプローチした研究者だと言える。時代柄、侵襲的な研究が多く、倫理面から非侵襲的な研究が重視される現代の脳科学とは幾らかの差異を感じる。確かに脳科学の手法はこの四半世紀で大きく変化し、新たに見出された事も多かったと思う。しかし彼が残してきた嗅覚~脳科学研究の業績はとても大きいものだ。彼は1989年にその時代における“香りの科学”に関する教科書的な本を出版している。「匂いの科学」(朝倉書房1989)4である。その上梓から約20年、その間「ブレークスルー」もあり、上記のように“香りの科学”周辺は大きく前進した。澁谷達明の「匂いと香りの科学」朝倉書店 (2007/02)が上梓された背景は正にその前進のためであった。

「ブレークスルー」前の「匂いの科学」もその執筆陣はかなり豪華なものであったが、その後の「においと香りの科学」でもかなり豪華な執筆陣が各セクションを持っている。以前より自分も感じていることなのだが、匂い・香りの科学は実に多分野にまたがっており、化学・生物科学(分子生物学など)・生理学(脳科学ももちろん含む)・医学・心理学・農学と幅広い分野(あるいはそれ以上かもしれない)でさまざまな研究者が研究を重ねている。澁谷先生はその進展に対してそれらを纏め、上梓することがこの研究分野において必要なのだと感じられたのだと思う。実際この本は幅広く第一線で活躍している研究者達によって執筆されているのである。

版数は余り多くなく、各章はかなり専門的だが、学際領域を鳥瞰できる、自分としてはとても勉強になる一冊だと思っている。

参考;
1.朝倉書店| 匂いと香りの科学
2.CiNii Articles 検索 -  澁谷達明
3.嗅覚受容体 - Wikipedia
4.Amazon.co.jp: 匂いの科学: 高木 貞敬, 渋谷 達明: 本

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以下に自分として気になる項目に関してメモしておく。

(p.50) 表3.1にゲノム解析の終了した生物における受容体遺伝子数を纏めてある。進化史上視覚と聴覚の進化に伴って嗅覚受容体に関する遺伝子の偽遺伝子化が急速に進んでいる。確かに匂い・味・フェロモンといった化学刺激はプリミティブな生物にとって重要な刺激である。反面、光や音という物理刺激は生物にとっては検出しにくい刺激であり、目や鼓膜のような検出機関はかなり高度な進化の末に獲得された器官である。ものすごく大雑把に言うと、プリミティブな生物ほど化学刺激による情報に依存した行動を取り、進化した生物ほど物理刺激による情報に依存していることを象徴している。脳科学的にも、においに関するレスポンスは古い脳である“爬虫類の脳”を一度通ったりするが、音や画像情報は旧皮質や新皮質がかなり反応するとの事で、生物進化において“匂い”の役割がどのように変化してきたのかを窺い知ることが出来る。a,b

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(p.52) 嗅覚受容体のリガンド結合部位では疎水性のアミノ酸が受容空間を作っている。このためリガンドとレセプターは緩く(低親和性で)しか結合できず、構造類似する広範囲の匂い分子を分子認識する(図3.2)。(p.57)匂い情報は受容体で分子認識され嗅球で“2次元変換”されて、脳内では画像認識などのような認識をされていると考えられている。電子掲示板に映し出される画像のように、複数の糸球の発光パターンとして表示されているのではないか、と考えられている。このような低親和性の分子認識+センサーアレイ+パターンマッチングが匂いの生体での認識だと考えられる。

このような認識機構のおかげで、匂い分子が構造決定基から言うと数万種類あって、潜在的な可能性としては多種多様な匂いの識別が必要であるにもかかわらず、1000種類前後の嗅覚受容体(偽遺伝子含む)だけで識別に差し障りがない、と考えられている。f

(この項目は書いていないことだが)外池先生もセミナーa,b中に言っていたが、おそらく匂い分子の刺激だけで匂いが認識されているわけではなく他の刺激も複合化されて認識されていると考えられる。例えば味覚刺激とレトロネイザル香気(喉の奥から鼻に抜けてくる咀嚼中の香気)dは、脳内で刺激が統合されて、“味”として認識されているのではないか?というような現象がある。

また別途気になることも出てくる。なぜ他愛ない特定の化合物が低閾値で、高い香気の特徴付けの役割を果たしているのか?“特定の化合物”としては、カロテノイド化合物(イオノン系、ダマセノン類)、バニリン骨格、マルトールのようなスイートノートのような“他愛ない”化合物が挙げられる。また例えば含硫化合物eやピラジン類のような特殊な形状のものは低閾値のものが多い。それらが低閾値でなくてはならない生物進化学的な理由付け、それらを低閾値たらしめる受容機構の化学的(ホスト~ゲスト化学的)なメカニズム解明はとても興味が持たれるところだ。

メモ;
澁谷達明「匂いと香りの科学」朝倉書店 (2007/02);A5/264ページ/2007年02月20日、ISBN978-4-254-10207-9 C3040 (ISBN-10: 4254102070)
澁谷 達明;1931年東京都に生まれる。1958年東京教育大学(現筑波大学)大学院理学研究科修了。筑波大学名誉教授。嗅覚味覚研究所所長。理学博士
市川 眞澄;1950年長野県に生まれる。1979年東京大学大学院理学系研究科修了。現在、(財)東京都医学研究機構・東京都神経科学総合研究所副参事研究員。理学博士1

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