化粧品の香りの心理学系のインターン

従兄弟が化粧品メーカーの心理学研究に関して教えてくれた。心理学系の研究生をインターンとして集めて、ちょっと仕事の触りを見てもらおうとしているようである。心理系研究に関しては最大手よりは遅れているかもしれないと思う。そのメーカーは、化学系に関してはかなりの部分を自製化しようと考え、調香部門も持っていたりする。それをきちんと調べたのも3年ほど前の話であるので、最新事状に関しては、教えてもらわなくてはいけないと思うのだが。

彼らはどこまで考えているのだろうか?‎香りの情報化を進めようと考えているのだろうか?それとも物理的な資材と商品デザイン技術の充足を追い求めているのだろうか?

自分の提案できる話題としては、嗅覚受容コーディングの解明、つまり人間にとっての嗅覚情報のhardwareコーディングを解明する事で、香りを実用的に‎情報化できると考えていること。これを明らかにすることで、調香技術は、専門的なものではなく、オープンなフォーマットに還元できるはずである事。オープンなformatにできるということは、香りのデザインが容易になるであろうし、文化解析も可能になるであろう。ハードウェア的なコーディングが明らかにできれば、心理学的な香り情報処理に関する解析も進めやすくなるであろう。これらの恩恵を受けるとすれば、それは化粧品デザインにかなり有益なはずだ。

科学を軸として技術を連続的にアップロードする

このままの状況では研究を続けることができないかもしれないという恐れを感じている。

これまでに述べてきたように、アカデミックの路線の方に行きたいと度々言ってきたのだが、それが実現できなくなる最悪の状況をつい考えてしまっている。そのような状況下に、自分自身がしつつあるのかもしれない、ちょっとその状況を解決したほうが良いと思っている。

そもそも、アカデミックに行くためには、ブログなどの自助努力はしないほうが良い可能性がある。それは余計な波風を立てることが、ポジション確立のためには良い影響を与えないのではないか、と考えていた。それに研究が進むにつれ、その内容に描きにくい状況に移行しつつある、それは書く内容が専門的になりすぎてしまうことと、確立した知見のリークにつながってしまう可能性があるためである。そしてその反作用で研究以外の事が多くなってしまい、あたかも研究をしてないかのように見られてしまうのではないか、と言う恐れがあった。

もっと多くの人と会うべきなのだと思う。この前の味と匂い学会は参加を逃したが、その類の会合には出席をしなくてはいけないのだと思う。できれば週3人ぐらいの人に会えたら良いと思う。そして、常に自分の研究を人に話し、ブログにも自分の状況を更新し続けることが必要なのであろうと思っている。

そして自分の考えていること、志向性を改めて理解していただくために、ブログを再開する必要があるだろう。自分は、研究をこそ手に入れるし、研究の対象は科学なのだし、そして科学が技術を生み出す軸になるであろうし、そして商圏を確立して行くのだ、という理解を持っている。同時に自分があんのんとしてしまう事をこそ、改めて注意を払い直さなくてはいけないと思った。自分がついつい手を抜いてしまっていることは自分の落ち度だ、きちんと警戒度数を上げないといけないと思う。

常に感じている危機感でもあるのだが、自分の思い付くことのできるアイディアというものは、他の人にも思い付けるモノであると考えている。ただし自分の考えていることというものは、現状自分が最も近いところにいるとも考えている。したがって、追いつかれないためには、常に前進し続けることが必要なのである。どんな人とでも会うこと、常に自分のアイディアを書き留め、何も思いつかない日は、それを見返して、ほかのアイディアを繋げて行く事、ただしアイディアを練り上げるステージというものは、オープンでは危険すぎる。オープンな場で練り上げるアイディアは概念及び実証済みの研究結果のみであるべきである。

かねてより述べているように、自分の為そうとしていることのフォーマットは、科学である。それは嗅覚のプライマリーコーディングが生物学的に規定できるはずであることと、そのために数学的な手法を用いて解析することで達成できる事である。プライマリーコーディングを明確にしたうえで、嗅覚の学習メカニズムの解析も具体性と、数値的/定量的な検討定義ができるであろう。又その結果は、電子デバイスや香りの情報化に大きく貢献できるものと考えている。そして検討手法は創薬などへも適用が可能になると考えられる。新しい科学が達成するものは、技術群をである、技術群をもってして‎可能になるのは新しい商圏である。検討はまだまだ課題が多いのだが、現状最優先に構築して行くべきは、科学である。

遊んでいる場合ではない。自分だけで走り始めた時の考えていたことは、今でも有効であり、有価である。アイディアをひとつずつつなぎ合わせてクラスターを作る、それが香りの科学の構築にアプローチできる唯一の方法である(そうしなくては何を研究したらよいのかすらわからない)。そして今注意しなくてはいけないことはバックボーンの構築(考えるためのシステム作り)に振り回されすぎないようすることだ。金で解決するモノは金で解決してしまうこと。

(4/7メモ)科学とかについて、考えていたもやもやを投げつけてみるメモ

(4/7メモ)
おもがたさんのことを受け、研究のありようについては、きちんと考えなくてはいけないし、自分のこれまでの経歴は、主に今理研にいるような純粋培養の人達 とはかなり違っており、より広く状況を俯瞰して判断するだけの多様性が分かる経歴なのだと思う。だからこそ、この理研の状況について考えていることをまとめて報告してやる必要がある。メディアはブログで良いと思う。だいたい、自分の意見を声高に主張する事が重要なのではなく、きちんと考えを練り上げること 自体、それが自分を作るし、自分の考えを練り上げてきた実績があること自体が自分をしかるべき場所へと上がる階段を示してくれる。
おもがたさんの問題点は科学的ではなかったこと、科学を構築するのが難しい時代になりかかっている事だろうと思う。その割に時代は結果を求めている。純全たるアカデミックでも、商売でもだ。

人間としての人生を全うすることと科学を作ることはなかなか両立しないことになったのだろう。科学をつくるためには、かなりの時間が必要である。これはト レーニング期間をかなり長時間しないといけないということだ。‎高度に分化した専門分野、それぞれの専門分野をマスターして、それにプラスAlphaの成 果を残すことは大変だし、能力を身につけたうえで、時間をかけて科学的検討を積み上げてやる必要がある。これを商売に転用可能な技術の形での再構築をする にはさらなる時間と労力が必要だ。多分一生涯かけてやる仕事になる。多くの場合、それまでの同分野の先輩が残した研究資産を使って研究を作って行く。しか も人間は生きていなくてはいけないので、その間の人生を誰かがサポートしてやる必要がある。

社会はそんな科学の世界が大変なものだとは思ってはいない。手品のようにささっと花が現れるわけではないことはなかなか理解されない。商売の世界は交換の文 化である。何らかのモノ、または権利、時には知見は対価を払って交換する対象なのである。‎だから科学研究に対価を払う限り、対価に見合った科学的知見が 生み出されなくてはいけないと考えてしまう。だが科学は科学的アプローチに従ってなされる採掘作業のようなものなので、土を掘ったからといって宝物が土中 から出てくるとは限らないのだ。研究者が一応生きて行かなくてはいけない費用も必要である。

理研という組織は何なのか?学生と研究者の境目はどこにあるのか?学生は手法の習得中の身分であり、研究者は手法を身につけた‎仕事をする身分にあるという ことは言えるであろう。理研にいるのは仕事をするべき研究員なのだろうと思う。とすれば、手法として必要なものを身につけていない研究員はそこで仕事をす るべきではないのではないだろうか?科学者としての必要な手法を身につけていなければ、その仕事は不十分な状況に陥ってしまい、その仕事の結果を受け入れ て新たな仕事をしようとする人にとっては迷惑な既製事実になってしまうであろう。

(昨日まで理研について、理学研究について、イノベーションに付いて考えていた。つづき)科学者というものは科学的手法によって現実から正しい解釈を切りとろ うとする者であろう。その仕事の成果は科学的な事実だ。科学的な成果を固定化するために必要なツールは論文であり、学会コミュニティにおける discussion(学会報告)である。このプロセスを経ることで、仮説は事実へと昇華し、このような事実を積み上げることによって構築された体系(脈 絡と続く科学の歴史の中で積み上げられた理解の集合体)に自分の名前を残すということなのである。(これを第一と考えているのであれば、非科学的な実験事 実の模造がいかに危険なことかわかるであろう、もちろん論文の発表や学会報告が科学的仮説の提案の場所であり、世界に名前を残せるのかも、競争下で行われ ていることを考えるとある程度のフライングあ含まれるのは至極当然のことである。だがそれも科学的良心の範囲内で行われなくてはならない)

さて身分を再び考える。科学の成果は誰のものなのであろう?組織のものなのか?それは誤りであると思う。科学は科学者によって作られる。共同作業はあって、 グループワークによって構築される作業もあるのであろうが、本質的には個人あるいは研究チーム長に帰属するものであると思う。また研究成果は投入した時間 や投入した労力、投入した資本に見合うだけのものが帰ってくるわけではない。したがって進捗管理は実際の話、できないものと考える。

別の観点から見てみる。進捗管理はできず、研究成果は確約されたものでもなく、しかしグループの皆が食べていかないといけない。それが科学を実際にやるもの の生涯である。それはやはりリスクの高いものだと思わざるをえない。それをしてまで科学をするその対価があっても良いのではないか、そう思える。だからこ そ結果のかなりの部分を研究者に与えてしかるべきなのではないかと考えるのである‎。それがないのであれば、研究者というものは牛舎に繋がれ牛乳を生産す るだけになってしまった牛か、カゴに入れられた卵を生むだけの鶏になってしまうと思う。と同時に、誰がその成果を上げようとする巨大な組織を束ねるのだ? 大企業なら正しいのか?国家なら正しいのか?イナ、すべての組織は過ちを犯すおそれがあるし、利権や既得権が‎強大な物になればなるほど、組織の死守のために自己のも他人のも、生涯を軽んじる輩がでてくる。本当にそれが正しい科学なのだろうか?

現状の回答としては、科学者の仕事は対価的に支払われるモノ、即日手に入れられる物ではない。自分たちは投げかけしかできず、それが歴史に残るようなもの だったのかどうかは、時代の経過と他の研究者のよる精査をへなくては明らかにならない。したがって研究者としては研究に対する姿勢、科学を哲学まで昇華し て体現している事が必要である。科学者は組織人ではないべきだ。だからこそ甘えは許されないのだし、きちんと科学を、社会を、世界を俯瞰して自分の仕事を作り上げていかなくてはいけない。

(科学について考えをまとめて行くのもよいが、自分の仕事に没頭して進めてゆくことも必要である。何ら かのプレッシャーがないと動けないというのもあるが、そこまでわかっているのなら自分で自律‎をして行くしかないのだ。仕事をしているのだから。日々の糧 のために働いているのではなく、野垂れじにをしたのだと思って、何らかの結果を時代に残したい、少なくとも何らかの結果が生まれ続ける場にいたいと思って いた、そんな仕事をしているのだから。…自戒的に)

‎(3/24メモ)もんもんと考えたことを投げつけたメモ(あるいは与太話)②

‎(3/24)人生のどうしようもないこと。現実的で最良の何かを目指すには?もんもんと考えたことを投げつけたメモ②

M2の男の子やB4の女の子と話して妙な話になった。そもそも彼が、分析機器メーカーに行った後、うまく社会人としてやっていけるかが不安だという話をしていた。大学生も終わりに近づいて、周囲を見渡して見てみると、自分の身の周りにはちょっとうまくいっていない人も多かったことに気づき、不安になってくると言うのだ。

おそらく、あまり給与もよくはないのに戸建ての住宅を買ったり、大型車を選択したり、レジャー費を掛けまくったりしてうまく行かなくなった人も多かったのではないかな、とおもった。

自分が定額預金を利用していた事、贅沢も必要だが、消耗品なのか耐久資材なのかを区別して考えていたことを言った。例えば、豪華な食事はその場限りで自分には戻ってこない、車やバイクなどもそうだ。ただしある程度の贅沢はないと精神的にやんでしまうので、ある程度は許容することが必要だとも思っていたといった。これは言わなかったが、蔵書や本当に性能が必要なコンピューターなどはリターンが得られるはずである。また住宅もそうだ。リセールをきちんと意識して購入したりすれば、運用をしても赤字のでない状態を維持できる。

また身体の不調も恐れていた。自分は30-45歳の間に大きな体調における損害を出さなければ良いのではないかと言った。逆に言うと、25歳前後では無理をして自分の限界点を知っておいたほうが良いのではないかと思うのである。ただしその後の年代いおいて体を壊してしまうと、その後リカバリーができないし、失敗の許されない時期なのだと思うている。

彼女に対しては、女の人の一番の問題は恋人なのではないかと考えていると言った。男は女をコントロールできるが、あるレベル以上においては女は男をコントロールできない。恋人がダメな男であっても逆の場合に比べて抜け出しにくくなる。そういう男の人に対して気をつける基準としては、「飲む・打つ・買う」だと思うとも言った。これは健全な社会人として生きていく人間としては、この基準で見ればある程度人間が読めるような気がするのである。(自分のことはさておいて;自分は今、「自分の人生を自分の精神が支配する事ができるのか」を挑戦している。これは賭けであるし、病的性格とも言えるかもしれない。‎)

こう綺麗事を並べても、人間というのは自分の人生をコントロールできないし、心や身体をコントロールできる時期は限られている。運命は存在するが、人間に見えている部分はごく一部なのである。

ブラックベリーQ5 with アンドロイドマーケット

ブラックベリーQ5にsnapというアンドロイドマーケットを使用できるアプリをインストールした。このアプリを使えば直接アンドロイドマーケットからAPKを本体にインストールできる。

ま ず、crack BerryのForum中にsnapに関するスレッドがあるので、そのリンク経由でダウンロードページに移動する。現状直接ブラックベリーworldから はインストールできないので、ダウンロードページから落としたbarFileをDDPBを用いて開発者モードでブラックベリーにインストールした。パソコ ンから端末を取り外すと、snapが利用可能になる。

snap利用のた めにはGoogleアカウントが必要で、今回は既存のメールアカウントを利用した。‎あとは通常通りアンドロイドマーケットとして利用が可能である。現 状、Hootsuite, line, Feedly, 乗り換え案内(ナビタイム)、050plusをインストールしてみた。barは起動していないアプリもバックグラウンドで稼動しているのに対して、APK は起動していなければバックグラウンドでは完全にサイレントのようである。line、050plus 共に着信しなかった。うまく稼動している状態では戻るボタンなども完全に稼働するが、機能しなくなることもそれなりにありそうだ。完璧に機能している感じ だったのはFeedly, hootsuiteあたり。

‎松華堂弁当と月と聞香の会(案)

‎松華堂弁当を見て二つ思いついた。

一つは台湾の留学生が日本好きのようなので、懐石のようなフォーマルな飯と酒を出したいなと思っていたのだが、完璧な茶会席だとしんどいし、懐にも痛いので‎提案しかねていた。松花堂弁当であれば、そこまで値段もしないし、きちんとした和食がでてくるであろうから、好適なのではないかと思った。

もう一つは「源氏物語と香」のセミナーで話題に上がった月見の会である。観月を盆に張った水面に移して楽しむという話だったのだが、それを夜間借りられる茶室のような場所を使用できないかと考えていた。そこで、出す食事として、松花堂弁当を用意して、かつ美味しい日本酒を用意してはどうかなと思ったのである。

観月の進行としては、多分茶会席をスタイルにしたものを用意したら良いのだろうと思う。待合で、煎茶を味わったあと、夕刻の時間と聞香席を‎楽しむ、その後に松花堂弁当をあてにお酒を飲みながら、観月。その後に焼香を楽しんで会を終了する。このような進行で、所要時間としては3時間ほど。というスケジュールはいかがだろうか?会のメインとしては、聞香と観月とできないかと考えている。

refs;
貸し茶室情報 | アバンギャルド茶会 はじめての茶道・茶会を体験しよう
首都圏(東京/横浜)で借りられる茶室(レンタル茶室) - NAVER まとめ
松花堂弁当 - Wikipedia
松花堂弁当の起源|松花堂庭園・美術館

平野佐和 / 文化学院大学 大学祭展示

アットアロマの開発の方だと思うのだが、平野佐和という方が文化大学で講義を受け持っているらしい。その教室の成果(アロマオイルとテキスタイルの関係という内容)を、文化学院大学の文化祭で展示しているということだったので、見に行ってきた。

香りとしてはすべて一般的な、天然のアロマオイルが選択されていた(天然のモチーフ)のだが、生徒はそれぞれ好みのモノを選択して、テキスタイルを創造して報告いたようだ。

様々な思い出が具体的に込め られたテキスタイルから、かなり抽象的なテキスタイルなど、色々が提案されていた。この試みはかなり面白い試みであるように思える。

今回の展示では、アロマオイルを利用されていたが、これを一般的な香水に拡張するとどうなるのか?一般的な香調ではどのような提案がなされるのであろう?

また具現化するアイテムとしてテキスタイル以外の対象をも選択可能にできるとしたなら、どのようなアイテムとして具現化されるであろう。キャラクターそのものを用いた擬人化なども面白いかもしれない。

(写真は後日アップするかもしれない)

sawaroma: 18 visual works from 8 kinds of aromaー 文化学園大学 文化祭にて

“古い感覚”の研究と人工知能開発

嗅覚にはまだまだ不明な点が大量に残存している。嗅覚受容レベルのメカニズム解釈は自然科学の領域だろう、メカニズム解釈をベースに、嗅覚コーディングが明らかにされることが期待される。あわせて、信号群をどのように解析しているのか、は工学的な領域ではないかと思われる。判別のための回路は学習によって組み立てられていると考えられ、工学的な人工知能のような形で模倣研究されるべきであるように思われる。小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路からスタートして実験系をビルドアップすることは人工知能のモデルとしても面白いのではないか、と考えたりする。


生物にとっての嗅覚の古さ
嗅覚は生物にとって、最も古い感覚器官であるとされている。生物は水生生物として発生し、進化をしてきたので嗅覚という表現には少々語弊があるように思う。進化の過程において長期間の間、匂い受容器官と味覚受容器官は分化していなかったかもしれない。自分がこの分野に関してあまり調べていないので表現が不正確になってしまうが、できるだけ正確に表現しようとするならば、化学刺激受容器官だったのだろうと思う。この後ヒトの嗅覚の話を中心にするので、「嗅覚」として話を進めることにする。

人にとっての嗅覚の古さ
ヒトにとっても嗅覚は旧い刺激システムである。ヒトには五感が存在するが、それらのうち脳の古い部分で刺激処理されるのは嗅覚刺激のみである。その他の刺激はかなり高度なレベルの、人間的な思考システムでの刺激情報処理が為されており、それも新皮質などの脳の新しいところで処理されている。

人間は嗅覚によるコミュニケーションを故意にシャットアウトしながら進化してきたのではないかとする仮説を見たことがある。たとえば怒りによって生成する感情誘引の香り物質が街中に漂っていて、その作用に人間があらがえないのだとすると、その性質は成熟した人間の社会性とは相いれないような気がする。またフェロモンの作用で場所をわきまえず交尾したりしてしまうのだとすると、その性質も成熟した人間の社会性とは相いれないような気がする。ヒトは進化する過程で社会的生物となったため、社会性に対する個を否定するほどの協調性、性の完全なコントロールを持っている。このため嗅覚系特にフェロモン系は不要だったのであろうというのだ。嗅覚系を社会的な生物のコミュニケーションツールとして進化した人間に組み込もうとするには、あまりにも古くからある情動系と強くリンクし過ぎていたのであろう。

匂い研究には色々なフェノメノンが存在している
匂いによる生物間コミュニケーションを確立し、インフォケミカルコミュニケーションを解明しようとする研究がある。これをさらに生物~人造物のコミュニケーションを発達させられないかと考える、人工的なセンサ系と生物系の化学刺激コミュニケーションを目指す研究も存在している。ただしこの場合は、いくつか決めなくてはいけないことがある。

まず単一の香りによるコミュニケーションを考えるのか、それとも複合臭による(一般臭的な)コミュニケーションを想定するのかという話である。次に一般臭であるのであれば、ヒトと同じような香りコーディングスペースを想定するのか、それともある程度の互換性欠如には目をつぶり、一定の範囲内の香気におけるコミュニケーションを想定するのかという話である。

特殊な香気によるフェロモン的な香りのやり取りをするのであれば、まだデバイス+メソッド開発は容易である様に考えられる。そのステージは二つのステップが重要となると考えられる;1, 特徴的に存在しているターゲット分子を分析化学的に同定し分子情報の研究2, 化学的相互作用の知見に基づく官能膜開発メソッド。だが、一般臭でなおかつ香気の領域を制限しないコミュニケーションを想定するのであれば前述2点の技術だけでは困難だという事が言えそうである。一般的な香気物質は、揮発性化合物の混合物であり、その印象は香気物質の組み合わせから知覚されると考えられる(キー香気物質のような形で、微量かつエッセンシャルな香気成分も定義できるのだが、作用機構や生体における化学刺激の伝播経路という点でフェロモンのような微量化学情報分子とは異なるものだと考えられそうである)。このため、明確に特異的な生体情報分子と一般香気は分離して考えた方が良いように思われる。

本来であればセンシングメカニズムはヒトの香りコーディングスペースをすべてカバーしているものが望ましい。しかしながら現在のセンシング技術、分析技術では生体の嗅覚感度に及ばない香り物質もあることが知られている。これはセンシングデータを生体の嗅覚受容にコンバートしようとしても、ある程度の互換性欠如が発生する事を意味している。現状に置いてはある程度コンバートの精度の欠落を覚悟しなくては行けない。人工のセンサーを介しては、一定の範囲内の香気におけるコミュニケーションに限定される必要がある、と考えている。

プリミティブな生物での嗅覚の実装
匂い、上記の表現で言うと一般臭をデータとしてみると、触覚、聴覚、視覚よりもデータ構造としては単純なのであろうと思われる。再度、ヒト以外の生物に注意を向けてみると、かなりプリミティブな生物でも匂いの学習、匂いの認識が可能なようである。そのセンシング手法は生物独自のものであり、かなり物質によっては鋭敏に反応することが出来る。もちろん動物に備わっている嗅覚感覚器のメカニズムはバックとアクセル以降、解明されつつあるとはいえ、まだまだ不明な点は大量に残存している。センシングのメカニズム解釈は自然科学の領域と言えるだろう。

生物のセンシングデータの信号処理系を解析することは、人工知能にとっては面白いターゲット系になるのではないかと思う。生物は小規模なリソースでも学習によって判別能力が向上するシステム、高速の判別システムを実現している。これを模倣することは人工知能の実現への第一歩になるのではないかと考えられる(ヒトの持っている多種類の嗅覚受容体ほどのバラエティを現実の工学的なセンサで実現することは困難であるし、実際そのようなセンシングデータの解析系をいきなり実用化することも困難であろう)。

人工知能というテーマの中の嗅覚模倣回路開発の直近目標
したがって人工知能研究に匂い認識回路の開発が貢献できないかと考えると、小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路の実験系のビルドアップが、その初期研究として有用な系だと思われる。

最終目標としての人の嗅覚回路の実際
ヒトに話を戻すと、ヒトの匂いの識別においても最初から匂いを判別できるわけではなさそうである。新規の匂いと、既存の匂いをかぎ分け、生物としての経験と結びつけながら、良い匂い、悪い匂いの区別、さらには匂いの質の分類へと、学習により判別回路が発達しているのだと思われる。実際、特別にトレーニングをしない限り、嗅いだ事のない匂いの判別・同定はヒトにはできない。また微細な匂いの差もトレーニングしない限り、再現性良く認識し、仕分け・同定したりすることは困難である。調香のトレーニングも基本的には同様で、匂い原料の匂い、調合してできた香りの匂いを覚えてゆくことで、調香が出来るようになる。そして嗅いだ事のない匂い、混ぜたことのない匂い原料は使うことが出来ない。これは機械的なセンサアレイのデータ解析系においても同様のことが言えそうである。

結論再提唱
ヒトに備わっている嗅覚感覚器のメカニズムはまだまだ不明な点は大量に残存している。現在求められるセンシングのメカニズム解釈は自然科学の領域と言えるだろう。メカニズム解釈をベースに、嗅覚コーディング(生体の嗅覚受容に置けるプライマリーレベルでの、化学刺激種の受容と信号化)が明らかにされるであろう。それは物理的なセンシングや分析技術のリニア性からはだいぶ歪んでいると考えられる。しかし、一般臭に関してはそれのみでは人と同じような嗅覚を再現することはできないであろう。プライマリーレベルで得られた信号群をどのように解析し、判別のためのデータを合成しているのか?その回路は個々に学習によって組み立てられていると考えられ、自然科学的な研究対象ではなく、工学的な人工知能のような形で模倣研究されるべきであるように思われる。

いずれにしても小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路からスタートして実験系をビルドアップしてゆければ人工知能のモデルとしても面白いものが出来るのではないか、と考えたりする。とりあえず考えていることは以上。

上田さんの「嗅覚迷路」②

(2013/9/15)アツコバルーの上田さんの展示の「嗅覚迷路」に、オープニング初日とWS日に行ってみた。色々試行錯誤したり、当初の思惑どおりに行っていない部分もあったそうだが、結構完成していて、アツコバルーの雰囲気を盛り上げられるインパクトのある展示になっていたように思う。

WS最中、WS終了後様々な話が飛び交っていたが、ちょっと記憶に残っているそのほかの話を少し。ちょっと羅列的になるが書いておく。

匂いの情報化ができるのかという話。自分の仕事に関する話をする場面があって、自分のなそうとしている仕事に関して話した。

匂いが人に与える効果。音楽家の方はオペラにおけるピアノ伴奏をしていた時期があって、出演時では5時間くらい連続して演奏をするそうなのだ。どんなにトレーニングをしても疲れてしまう部分があるそれは手でも体幹でもなく、頭なのだそうだ。そんな時にアロマテラピー精油のグッツをピアノの傍らに置いておくと脳の疲れ方が少し緩やかになる様だ。どうしてかは解らないのだが匂いが自分を自分の世界に止まらせてくれるようなところがある。これは参加者のみんなが同意していた事柄。

個人的な解釈を付け加えておくと、多分働きかける脳の部分が異なるからなのだろう。視覚情報や聴覚情報は人間の社会的な能力を支える感覚で、その刺激を脳は高次的な領域で処理をしている。それに対して、嗅覚の刺激(や味覚刺激)は脳の古い部分に働きかける。高次的な部分を使いすぎて疲労したときに、脳の古い部分を使うことでリフレッシュもしくは安定化ができているのではないだろうか?(科学的には要検証)

上田さんがもう一つ面白いことを言っていた。匂いと空間の調和感が直感的に解るが科学的には説明し難いものであるだろうということ。岡村でのWSでは目隠しをしても匂いへの感覚が盛り上がってくる感じはしなかったのだが、今回のWSでは目隠しをした途端に、床材の木の匂いや、ペンキの匂いや、上田さんがWSに入る前に作業していたというバニラの匂いが感じられた。この空間の差が何なのか上手く説明できないが、直感的に解るものだというはなしだった。香りのパフォーマンスをするときに、解るそうだ。地下や広すぎる場所はダメなのだそうだ。焚いても焚いても空間に響いてこないと言っていた。それを一発で見分けるためには音を聞いてみるのだそうだ。

空間に居心地の良し悪しは明確にあって、香りが乗りやすい空間はよい空間なことが多いそうだ。土地や空間は何らかのオーラのようなものを持っていて、それを人は感じるのだろう、と大概の人は感じると思う。日常から感覚を研ぎ澄ましている人は即断が効きそうだ。自分は結構このような人々の直観には同意する。おそらくこれは音や匂いや湿度や光を感じていて多感覚の複合認知で判断しているのだろうと思う。しかしそれを詳細に解析することは難しい。感性を育てることは、直感を育てることでもあるのかなと思う。そのためには自分の微細な感覚のぶれに注意を払うゆとりと、本人にある種のその様な内向性が必要なのかもしれない。

世界のフェイズ、あるいはフェノメノンはsocience, technologie, productに分けられるように思う。それぞれの段階において、先端があり、改革があり、一般化があり、流通や技術としての成熟がある。もちろんプロダクツにはテクノロジー以外からの新規性の流入もあり得るので、テクノロジーばかりではないのだが、新しいテクノロジーに立脚した新しいプロダクトは強い新規性を有する。(technologieがscienceの結果を継承している性質は疑うところではない)

上田さんの「嗅覚迷路」①

(2013/9/15)アツコバルーの上田さんの展示の「嗅覚迷路」に、オープニング初日とWS日に行ってみた。考えたことを書いてみる。

WSは純然と面白かった。WSの内容は前回、岡村のショールームでのWS内容と同じである。嗅覚で匂いの位置を知覚しよう、どれくらい匂いの塊を感じられるか、普段まったくトレーニングしない嗅覚を酷使してみよう、という内容。

参 加人数が募集人数ほど集まらなかったのは残念な事である。嗅覚アートという分野がエッジ過ぎることの証左なのではないか、とも思う。また日本国内におい て、彼女の作品製作が興味のある人にはかなり認知されているけれども、一般人を巻き込むような大きなムーブメントではないことの証左でもある。参加した人 は元々彼女のブログに関心を持っていたマーケッターやアロマテラピスト、音楽家など。その後結構濃い香りの話をすることができた。

上田さんが面白いことを言っていた。日本では香りを空間のものと認識するが、ヨーロッパでは香りをパーソナルのものだと認識するという話。

日本では香りを嗅ぐことによって風景を感じたりできるため、岡村での展示のようなコンテンツが成立するのだとか。ヨーロッパ人は香りをかいでもフレグランスとかパーソノロジーとかにすぐに結びつけてしまい、季節感やさらに発展的な空間感への連想へはつながらない様だ。空間内に匂いを薫きこめてもヨーロッパ人の多くは風景を感じないという。これは面白かった。確かに日本はお香の文化が古くからあるし、四季の変遷が結構派手で多彩な匂いが季節毎に漂う。その流れで言うと、食事においても固定されたスパイスを年中用いるのではなく、季節の折々の食材をほとんどスパイスを使わず、使ったとしても季節毎にかわるフレッシュな香草を使う流儀が発達したのではないか?

ただ逆の事もいえて、日本では基本的に香水は売れない。売れるフレグランスは、集団の中に調和できる香り。例えば石けん調の香りが日本ではもっとも売れる香水である。シャネルの社長が日本を訪問して、理由を散々リサーチした挙句、お香屋さんに入ってその理由を察知したという話もあるそうだ。日本には四季の匂い、高貴な匂い、清潔な匂い、もちろんあまり良くない匂いもある。日本人は匂いから空間・空気を察知しようとするのではないだろうか?

日本人の香りの文化における没個性性、お香文化はヨーロッパとは対称をなすものなのかもしれない。日本人は嗅覚という感覚を用いて匂いから空間・空気を察知しようとするのではないだろうか?逆にヨーロッパ人は匂いからパーソノロジー・人格・人間性を察知しようとするといえそうだ(もちろんこれはフレグランス文化であって、匂い全般という観点から言うと“狭義”だが)。これは文化成立の背景である、島国気質(民族流入の歴史が薄い)、四季性、アニミズム・多神教・神道的な世界観が、文化に置ける嗅覚の認知対象をかえているのかもしれない。