化粧品の香りの心理学系のインターン

従兄弟が化粧品メーカーの心理学研究に関して教えてくれた。心理学系の研究生をインターンとして集めて、ちょっと仕事の触りを見てもらおうとしているようである。心理系研究に関しては最大手よりは遅れているかもしれないと思う。そのメーカーは、化学系に関してはかなりの部分を自製化しようと考え、調香部門も持っていたりする。それをきちんと調べたのも3年ほど前の話であるので、最新事状に関しては、教えてもらわなくてはいけないと思うのだが。

彼らはどこまで考えているのだろうか?‎香りの情報化を進めようと考えているのだろうか?それとも物理的な資材と商品デザイン技術の充足を追い求めているのだろうか?

自分の提案できる話題としては、嗅覚受容コーディングの解明、つまり人間にとっての嗅覚情報のhardwareコーディングを解明する事で、香りを実用的に‎情報化できると考えていること。これを明らかにすることで、調香技術は、専門的なものではなく、オープンなフォーマットに還元できるはずである事。オープンなformatにできるということは、香りのデザインが容易になるであろうし、文化解析も可能になるであろう。ハードウェア的なコーディングが明らかにできれば、心理学的な香り情報処理に関する解析も進めやすくなるであろう。これらの恩恵を受けるとすれば、それは化粧品デザインにかなり有益なはずだ。

科学を軸として技術を連続的にアップロードする

このままの状況では研究を続けることができないかもしれないという恐れを感じている。

これまでに述べてきたように、アカデミックの路線の方に行きたいと度々言ってきたのだが、それが実現できなくなる最悪の状況をつい考えてしまっている。そのような状況下に、自分自身がしつつあるのかもしれない、ちょっとその状況を解決したほうが良いと思っている。

そもそも、アカデミックに行くためには、ブログなどの自助努力はしないほうが良い可能性がある。それは余計な波風を立てることが、ポジション確立のためには良い影響を与えないのではないか、と考えていた。それに研究が進むにつれ、その内容に描きにくい状況に移行しつつある、それは書く内容が専門的になりすぎてしまうことと、確立した知見のリークにつながってしまう可能性があるためである。そしてその反作用で研究以外の事が多くなってしまい、あたかも研究をしてないかのように見られてしまうのではないか、と言う恐れがあった。

もっと多くの人と会うべきなのだと思う。この前の味と匂い学会は参加を逃したが、その類の会合には出席をしなくてはいけないのだと思う。できれば週3人ぐらいの人に会えたら良いと思う。そして、常に自分の研究を人に話し、ブログにも自分の状況を更新し続けることが必要なのであろうと思っている。

そして自分の考えていること、志向性を改めて理解していただくために、ブログを再開する必要があるだろう。自分は、研究をこそ手に入れるし、研究の対象は科学なのだし、そして科学が技術を生み出す軸になるであろうし、そして商圏を確立して行くのだ、という理解を持っている。同時に自分があんのんとしてしまう事をこそ、改めて注意を払い直さなくてはいけないと思った。自分がついつい手を抜いてしまっていることは自分の落ち度だ、きちんと警戒度数を上げないといけないと思う。

常に感じている危機感でもあるのだが、自分の思い付くことのできるアイディアというものは、他の人にも思い付けるモノであると考えている。ただし自分の考えていることというものは、現状自分が最も近いところにいるとも考えている。したがって、追いつかれないためには、常に前進し続けることが必要なのである。どんな人とでも会うこと、常に自分のアイディアを書き留め、何も思いつかない日は、それを見返して、ほかのアイディアを繋げて行く事、ただしアイディアを練り上げるステージというものは、オープンでは危険すぎる。オープンな場で練り上げるアイディアは概念及び実証済みの研究結果のみであるべきである。

かねてより述べているように、自分の為そうとしていることのフォーマットは、科学である。それは嗅覚のプライマリーコーディングが生物学的に規定できるはずであることと、そのために数学的な手法を用いて解析することで達成できる事である。プライマリーコーディングを明確にしたうえで、嗅覚の学習メカニズムの解析も具体性と、数値的/定量的な検討定義ができるであろう。又その結果は、電子デバイスや香りの情報化に大きく貢献できるものと考えている。そして検討手法は創薬などへも適用が可能になると考えられる。新しい科学が達成するものは、技術群をである、技術群をもってして‎可能になるのは新しい商圏である。検討はまだまだ課題が多いのだが、現状最優先に構築して行くべきは、科学である。

遊んでいる場合ではない。自分だけで走り始めた時の考えていたことは、今でも有効であり、有価である。アイディアをひとつずつつなぎ合わせてクラスターを作る、それが香りの科学の構築にアプローチできる唯一の方法である(そうしなくては何を研究したらよいのかすらわからない)。そして今注意しなくてはいけないことはバックボーンの構築(考えるためのシステム作り)に振り回されすぎないようすることだ。金で解決するモノは金で解決してしまうこと。

(4/7メモ)科学とかについて、考えていたもやもやを投げつけてみるメモ

(4/7メモ)
おもがたさんのことを受け、研究のありようについては、きちんと考えなくてはいけないし、自分のこれまでの経歴は、主に今理研にいるような純粋培養の人達 とはかなり違っており、より広く状況を俯瞰して判断するだけの多様性が分かる経歴なのだと思う。だからこそ、この理研の状況について考えていることをまとめて報告してやる必要がある。メディアはブログで良いと思う。だいたい、自分の意見を声高に主張する事が重要なのではなく、きちんと考えを練り上げること 自体、それが自分を作るし、自分の考えを練り上げてきた実績があること自体が自分をしかるべき場所へと上がる階段を示してくれる。
おもがたさんの問題点は科学的ではなかったこと、科学を構築するのが難しい時代になりかかっている事だろうと思う。その割に時代は結果を求めている。純全たるアカデミックでも、商売でもだ。

人間としての人生を全うすることと科学を作ることはなかなか両立しないことになったのだろう。科学をつくるためには、かなりの時間が必要である。これはト レーニング期間をかなり長時間しないといけないということだ。‎高度に分化した専門分野、それぞれの専門分野をマスターして、それにプラスAlphaの成 果を残すことは大変だし、能力を身につけたうえで、時間をかけて科学的検討を積み上げてやる必要がある。これを商売に転用可能な技術の形での再構築をする にはさらなる時間と労力が必要だ。多分一生涯かけてやる仕事になる。多くの場合、それまでの同分野の先輩が残した研究資産を使って研究を作って行く。しか も人間は生きていなくてはいけないので、その間の人生を誰かがサポートしてやる必要がある。

社会はそんな科学の世界が大変なものだとは思ってはいない。手品のようにささっと花が現れるわけではないことはなかなか理解されない。商売の世界は交換の文 化である。何らかのモノ、または権利、時には知見は対価を払って交換する対象なのである。‎だから科学研究に対価を払う限り、対価に見合った科学的知見が 生み出されなくてはいけないと考えてしまう。だが科学は科学的アプローチに従ってなされる採掘作業のようなものなので、土を掘ったからといって宝物が土中 から出てくるとは限らないのだ。研究者が一応生きて行かなくてはいけない費用も必要である。

理研という組織は何なのか?学生と研究者の境目はどこにあるのか?学生は手法の習得中の身分であり、研究者は手法を身につけた‎仕事をする身分にあるという ことは言えるであろう。理研にいるのは仕事をするべき研究員なのだろうと思う。とすれば、手法として必要なものを身につけていない研究員はそこで仕事をす るべきではないのではないだろうか?科学者としての必要な手法を身につけていなければ、その仕事は不十分な状況に陥ってしまい、その仕事の結果を受け入れ て新たな仕事をしようとする人にとっては迷惑な既製事実になってしまうであろう。

(昨日まで理研について、理学研究について、イノベーションに付いて考えていた。つづき)科学者というものは科学的手法によって現実から正しい解釈を切りとろ うとする者であろう。その仕事の成果は科学的な事実だ。科学的な成果を固定化するために必要なツールは論文であり、学会コミュニティにおける discussion(学会報告)である。このプロセスを経ることで、仮説は事実へと昇華し、このような事実を積み上げることによって構築された体系(脈 絡と続く科学の歴史の中で積み上げられた理解の集合体)に自分の名前を残すということなのである。(これを第一と考えているのであれば、非科学的な実験事 実の模造がいかに危険なことかわかるであろう、もちろん論文の発表や学会報告が科学的仮説の提案の場所であり、世界に名前を残せるのかも、競争下で行われ ていることを考えるとある程度のフライングあ含まれるのは至極当然のことである。だがそれも科学的良心の範囲内で行われなくてはならない)

さて身分を再び考える。科学の成果は誰のものなのであろう?組織のものなのか?それは誤りであると思う。科学は科学者によって作られる。共同作業はあって、 グループワークによって構築される作業もあるのであろうが、本質的には個人あるいは研究チーム長に帰属するものであると思う。また研究成果は投入した時間 や投入した労力、投入した資本に見合うだけのものが帰ってくるわけではない。したがって進捗管理は実際の話、できないものと考える。

別の観点から見てみる。進捗管理はできず、研究成果は確約されたものでもなく、しかしグループの皆が食べていかないといけない。それが科学を実際にやるもの の生涯である。それはやはりリスクの高いものだと思わざるをえない。それをしてまで科学をするその対価があっても良いのではないか、そう思える。だからこ そ結果のかなりの部分を研究者に与えてしかるべきなのではないかと考えるのである‎。それがないのであれば、研究者というものは牛舎に繋がれ牛乳を生産す るだけになってしまった牛か、カゴに入れられた卵を生むだけの鶏になってしまうと思う。と同時に、誰がその成果を上げようとする巨大な組織を束ねるのだ? 大企業なら正しいのか?国家なら正しいのか?イナ、すべての組織は過ちを犯すおそれがあるし、利権や既得権が‎強大な物になればなるほど、組織の死守のために自己のも他人のも、生涯を軽んじる輩がでてくる。本当にそれが正しい科学なのだろうか?

現状の回答としては、科学者の仕事は対価的に支払われるモノ、即日手に入れられる物ではない。自分たちは投げかけしかできず、それが歴史に残るようなもの だったのかどうかは、時代の経過と他の研究者のよる精査をへなくては明らかにならない。したがって研究者としては研究に対する姿勢、科学を哲学まで昇華し て体現している事が必要である。科学者は組織人ではないべきだ。だからこそ甘えは許されないのだし、きちんと科学を、社会を、世界を俯瞰して自分の仕事を作り上げていかなくてはいけない。

(科学について考えをまとめて行くのもよいが、自分の仕事に没頭して進めてゆくことも必要である。何ら かのプレッシャーがないと動けないというのもあるが、そこまでわかっているのなら自分で自律‎をして行くしかないのだ。仕事をしているのだから。日々の糧 のために働いているのではなく、野垂れじにをしたのだと思って、何らかの結果を時代に残したい、少なくとも何らかの結果が生まれ続ける場にいたいと思って いた、そんな仕事をしているのだから。…自戒的に)

‎(3/24メモ)もんもんと考えたことを投げつけたメモ(あるいは与太話)②

‎(3/24)人生のどうしようもないこと。現実的で最良の何かを目指すには?もんもんと考えたことを投げつけたメモ②

M2の男の子やB4の女の子と話して妙な話になった。そもそも彼が、分析機器メーカーに行った後、うまく社会人としてやっていけるかが不安だという話をしていた。大学生も終わりに近づいて、周囲を見渡して見てみると、自分の身の周りにはちょっとうまくいっていない人も多かったことに気づき、不安になってくると言うのだ。

おそらく、あまり給与もよくはないのに戸建ての住宅を買ったり、大型車を選択したり、レジャー費を掛けまくったりしてうまく行かなくなった人も多かったのではないかな、とおもった。

自分が定額預金を利用していた事、贅沢も必要だが、消耗品なのか耐久資材なのかを区別して考えていたことを言った。例えば、豪華な食事はその場限りで自分には戻ってこない、車やバイクなどもそうだ。ただしある程度の贅沢はないと精神的にやんでしまうので、ある程度は許容することが必要だとも思っていたといった。これは言わなかったが、蔵書や本当に性能が必要なコンピューターなどはリターンが得られるはずである。また住宅もそうだ。リセールをきちんと意識して購入したりすれば、運用をしても赤字のでない状態を維持できる。

また身体の不調も恐れていた。自分は30-45歳の間に大きな体調における損害を出さなければ良いのではないかと言った。逆に言うと、25歳前後では無理をして自分の限界点を知っておいたほうが良いのではないかと思うのである。ただしその後の年代いおいて体を壊してしまうと、その後リカバリーができないし、失敗の許されない時期なのだと思うている。

彼女に対しては、女の人の一番の問題は恋人なのではないかと考えていると言った。男は女をコントロールできるが、あるレベル以上においては女は男をコントロールできない。恋人がダメな男であっても逆の場合に比べて抜け出しにくくなる。そういう男の人に対して気をつける基準としては、「飲む・打つ・買う」だと思うとも言った。これは健全な社会人として生きていく人間としては、この基準で見ればある程度人間が読めるような気がするのである。(自分のことはさておいて;自分は今、「自分の人生を自分の精神が支配する事ができるのか」を挑戦している。これは賭けであるし、病的性格とも言えるかもしれない。‎)

こう綺麗事を並べても、人間というのは自分の人生をコントロールできないし、心や身体をコントロールできる時期は限られている。運命は存在するが、人間に見えている部分はごく一部なのである。