“古い感覚”の研究と人工知能開発

嗅覚にはまだまだ不明な点が大量に残存している。嗅覚受容レベルのメカニズム解釈は自然科学の領域だろう、メカニズム解釈をベースに、嗅覚コーディングが明らかにされることが期待される。あわせて、信号群をどのように解析しているのか、は工学的な領域ではないかと思われる。判別のための回路は学習によって組み立てられていると考えられ、工学的な人工知能のような形で模倣研究されるべきであるように思われる。小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路からスタートして実験系をビルドアップすることは人工知能のモデルとしても面白いのではないか、と考えたりする。


生物にとっての嗅覚の古さ
嗅覚は生物にとって、最も古い感覚器官であるとされている。生物は水生生物として発生し、進化をしてきたので嗅覚という表現には少々語弊があるように思う。進化の過程において長期間の間、匂い受容器官と味覚受容器官は分化していなかったかもしれない。自分がこの分野に関してあまり調べていないので表現が不正確になってしまうが、できるだけ正確に表現しようとするならば、化学刺激受容器官だったのだろうと思う。この後ヒトの嗅覚の話を中心にするので、「嗅覚」として話を進めることにする。

人にとっての嗅覚の古さ
ヒトにとっても嗅覚は旧い刺激システムである。ヒトには五感が存在するが、それらのうち脳の古い部分で刺激処理されるのは嗅覚刺激のみである。その他の刺激はかなり高度なレベルの、人間的な思考システムでの刺激情報処理が為されており、それも新皮質などの脳の新しいところで処理されている。

人間は嗅覚によるコミュニケーションを故意にシャットアウトしながら進化してきたのではないかとする仮説を見たことがある。たとえば怒りによって生成する感情誘引の香り物質が街中に漂っていて、その作用に人間があらがえないのだとすると、その性質は成熟した人間の社会性とは相いれないような気がする。またフェロモンの作用で場所をわきまえず交尾したりしてしまうのだとすると、その性質も成熟した人間の社会性とは相いれないような気がする。ヒトは進化する過程で社会的生物となったため、社会性に対する個を否定するほどの協調性、性の完全なコントロールを持っている。このため嗅覚系特にフェロモン系は不要だったのであろうというのだ。嗅覚系を社会的な生物のコミュニケーションツールとして進化した人間に組み込もうとするには、あまりにも古くからある情動系と強くリンクし過ぎていたのであろう。

匂い研究には色々なフェノメノンが存在している
匂いによる生物間コミュニケーションを確立し、インフォケミカルコミュニケーションを解明しようとする研究がある。これをさらに生物~人造物のコミュニケーションを発達させられないかと考える、人工的なセンサ系と生物系の化学刺激コミュニケーションを目指す研究も存在している。ただしこの場合は、いくつか決めなくてはいけないことがある。

まず単一の香りによるコミュニケーションを考えるのか、それとも複合臭による(一般臭的な)コミュニケーションを想定するのかという話である。次に一般臭であるのであれば、ヒトと同じような香りコーディングスペースを想定するのか、それともある程度の互換性欠如には目をつぶり、一定の範囲内の香気におけるコミュニケーションを想定するのかという話である。

特殊な香気によるフェロモン的な香りのやり取りをするのであれば、まだデバイス+メソッド開発は容易である様に考えられる。そのステージは二つのステップが重要となると考えられる;1, 特徴的に存在しているターゲット分子を分析化学的に同定し分子情報の研究2, 化学的相互作用の知見に基づく官能膜開発メソッド。だが、一般臭でなおかつ香気の領域を制限しないコミュニケーションを想定するのであれば前述2点の技術だけでは困難だという事が言えそうである。一般的な香気物質は、揮発性化合物の混合物であり、その印象は香気物質の組み合わせから知覚されると考えられる(キー香気物質のような形で、微量かつエッセンシャルな香気成分も定義できるのだが、作用機構や生体における化学刺激の伝播経路という点でフェロモンのような微量化学情報分子とは異なるものだと考えられそうである)。このため、明確に特異的な生体情報分子と一般香気は分離して考えた方が良いように思われる。

本来であればセンシングメカニズムはヒトの香りコーディングスペースをすべてカバーしているものが望ましい。しかしながら現在のセンシング技術、分析技術では生体の嗅覚感度に及ばない香り物質もあることが知られている。これはセンシングデータを生体の嗅覚受容にコンバートしようとしても、ある程度の互換性欠如が発生する事を意味している。現状に置いてはある程度コンバートの精度の欠落を覚悟しなくては行けない。人工のセンサーを介しては、一定の範囲内の香気におけるコミュニケーションに限定される必要がある、と考えている。

プリミティブな生物での嗅覚の実装
匂い、上記の表現で言うと一般臭をデータとしてみると、触覚、聴覚、視覚よりもデータ構造としては単純なのであろうと思われる。再度、ヒト以外の生物に注意を向けてみると、かなりプリミティブな生物でも匂いの学習、匂いの認識が可能なようである。そのセンシング手法は生物独自のものであり、かなり物質によっては鋭敏に反応することが出来る。もちろん動物に備わっている嗅覚感覚器のメカニズムはバックとアクセル以降、解明されつつあるとはいえ、まだまだ不明な点は大量に残存している。センシングのメカニズム解釈は自然科学の領域と言えるだろう。

生物のセンシングデータの信号処理系を解析することは、人工知能にとっては面白いターゲット系になるのではないかと思う。生物は小規模なリソースでも学習によって判別能力が向上するシステム、高速の判別システムを実現している。これを模倣することは人工知能の実現への第一歩になるのではないかと考えられる(ヒトの持っている多種類の嗅覚受容体ほどのバラエティを現実の工学的なセンサで実現することは困難であるし、実際そのようなセンシングデータの解析系をいきなり実用化することも困難であろう)。

人工知能というテーマの中の嗅覚模倣回路開発の直近目標
したがって人工知能研究に匂い認識回路の開発が貢献できないかと考えると、小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路の実験系のビルドアップが、その初期研究として有用な系だと思われる。

最終目標としての人の嗅覚回路の実際
ヒトに話を戻すと、ヒトの匂いの識別においても最初から匂いを判別できるわけではなさそうである。新規の匂いと、既存の匂いをかぎ分け、生物としての経験と結びつけながら、良い匂い、悪い匂いの区別、さらには匂いの質の分類へと、学習により判別回路が発達しているのだと思われる。実際、特別にトレーニングをしない限り、嗅いだ事のない匂いの判別・同定はヒトにはできない。また微細な匂いの差もトレーニングしない限り、再現性良く認識し、仕分け・同定したりすることは困難である。調香のトレーニングも基本的には同様で、匂い原料の匂い、調合してできた香りの匂いを覚えてゆくことで、調香が出来るようになる。そして嗅いだ事のない匂い、混ぜたことのない匂い原料は使うことが出来ない。これは機械的なセンサアレイのデータ解析系においても同様のことが言えそうである。

結論再提唱
ヒトに備わっている嗅覚感覚器のメカニズムはまだまだ不明な点は大量に残存している。現在求められるセンシングのメカニズム解釈は自然科学の領域と言えるだろう。メカニズム解釈をベースに、嗅覚コーディング(生体の嗅覚受容に置けるプライマリーレベルでの、化学刺激種の受容と信号化)が明らかにされるであろう。それは物理的なセンシングや分析技術のリニア性からはだいぶ歪んでいると考えられる。しかし、一般臭に関してはそれのみでは人と同じような嗅覚を再現することはできないであろう。プライマリーレベルで得られた信号群をどのように解析し、判別のためのデータを合成しているのか?その回路は個々に学習によって組み立てられていると考えられ、自然科学的な研究対象ではなく、工学的な人工知能のような形で模倣研究されるべきであるように思われる。

いずれにしても小規模のセンサアレイと、学習回路+判別回路からスタートして実験系をビルドアップしてゆければ人工知能のモデルとしても面白いものが出来るのではないか、と考えたりする。とりあえず考えていることは以上。