上田さんの「嗅覚迷路」②

(2013/9/15)アツコバルーの上田さんの展示の「嗅覚迷路」に、オープニング初日とWS日に行ってみた。色々試行錯誤したり、当初の思惑どおりに行っていない部分もあったそうだが、結構完成していて、アツコバルーの雰囲気を盛り上げられるインパクトのある展示になっていたように思う。

WS最中、WS終了後様々な話が飛び交っていたが、ちょっと記憶に残っているそのほかの話を少し。ちょっと羅列的になるが書いておく。

匂いの情報化ができるのかという話。自分の仕事に関する話をする場面があって、自分のなそうとしている仕事に関して話した。

匂いが人に与える効果。音楽家の方はオペラにおけるピアノ伴奏をしていた時期があって、出演時では5時間くらい連続して演奏をするそうなのだ。どんなにトレーニングをしても疲れてしまう部分があるそれは手でも体幹でもなく、頭なのだそうだ。そんな時にアロマテラピー精油のグッツをピアノの傍らに置いておくと脳の疲れ方が少し緩やかになる様だ。どうしてかは解らないのだが匂いが自分を自分の世界に止まらせてくれるようなところがある。これは参加者のみんなが同意していた事柄。

個人的な解釈を付け加えておくと、多分働きかける脳の部分が異なるからなのだろう。視覚情報や聴覚情報は人間の社会的な能力を支える感覚で、その刺激を脳は高次的な領域で処理をしている。それに対して、嗅覚の刺激(や味覚刺激)は脳の古い部分に働きかける。高次的な部分を使いすぎて疲労したときに、脳の古い部分を使うことでリフレッシュもしくは安定化ができているのではないだろうか?(科学的には要検証)

上田さんがもう一つ面白いことを言っていた。匂いと空間の調和感が直感的に解るが科学的には説明し難いものであるだろうということ。岡村でのWSでは目隠しをしても匂いへの感覚が盛り上がってくる感じはしなかったのだが、今回のWSでは目隠しをした途端に、床材の木の匂いや、ペンキの匂いや、上田さんがWSに入る前に作業していたというバニラの匂いが感じられた。この空間の差が何なのか上手く説明できないが、直感的に解るものだというはなしだった。香りのパフォーマンスをするときに、解るそうだ。地下や広すぎる場所はダメなのだそうだ。焚いても焚いても空間に響いてこないと言っていた。それを一発で見分けるためには音を聞いてみるのだそうだ。

空間に居心地の良し悪しは明確にあって、香りが乗りやすい空間はよい空間なことが多いそうだ。土地や空間は何らかのオーラのようなものを持っていて、それを人は感じるのだろう、と大概の人は感じると思う。日常から感覚を研ぎ澄ましている人は即断が効きそうだ。自分は結構このような人々の直観には同意する。おそらくこれは音や匂いや湿度や光を感じていて多感覚の複合認知で判断しているのだろうと思う。しかしそれを詳細に解析することは難しい。感性を育てることは、直感を育てることでもあるのかなと思う。そのためには自分の微細な感覚のぶれに注意を払うゆとりと、本人にある種のその様な内向性が必要なのかもしれない。

世界のフェイズ、あるいはフェノメノンはsocience, technologie, productに分けられるように思う。それぞれの段階において、先端があり、改革があり、一般化があり、流通や技術としての成熟がある。もちろんプロダクツにはテクノロジー以外からの新規性の流入もあり得るので、テクノロジーばかりではないのだが、新しいテクノロジーに立脚した新しいプロダクトは強い新規性を有する。(technologieがscienceの結果を継承している性質は疑うところではない)

上田さんの「嗅覚迷路」①

(2013/9/15)アツコバルーの上田さんの展示の「嗅覚迷路」に、オープニング初日とWS日に行ってみた。考えたことを書いてみる。

WSは純然と面白かった。WSの内容は前回、岡村のショールームでのWS内容と同じである。嗅覚で匂いの位置を知覚しよう、どれくらい匂いの塊を感じられるか、普段まったくトレーニングしない嗅覚を酷使してみよう、という内容。

参 加人数が募集人数ほど集まらなかったのは残念な事である。嗅覚アートという分野がエッジ過ぎることの証左なのではないか、とも思う。また日本国内におい て、彼女の作品製作が興味のある人にはかなり認知されているけれども、一般人を巻き込むような大きなムーブメントではないことの証左でもある。参加した人 は元々彼女のブログに関心を持っていたマーケッターやアロマテラピスト、音楽家など。その後結構濃い香りの話をすることができた。

上田さんが面白いことを言っていた。日本では香りを空間のものと認識するが、ヨーロッパでは香りをパーソナルのものだと認識するという話。

日本では香りを嗅ぐことによって風景を感じたりできるため、岡村での展示のようなコンテンツが成立するのだとか。ヨーロッパ人は香りをかいでもフレグランスとかパーソノロジーとかにすぐに結びつけてしまい、季節感やさらに発展的な空間感への連想へはつながらない様だ。空間内に匂いを薫きこめてもヨーロッパ人の多くは風景を感じないという。これは面白かった。確かに日本はお香の文化が古くからあるし、四季の変遷が結構派手で多彩な匂いが季節毎に漂う。その流れで言うと、食事においても固定されたスパイスを年中用いるのではなく、季節の折々の食材をほとんどスパイスを使わず、使ったとしても季節毎にかわるフレッシュな香草を使う流儀が発達したのではないか?

ただ逆の事もいえて、日本では基本的に香水は売れない。売れるフレグランスは、集団の中に調和できる香り。例えば石けん調の香りが日本ではもっとも売れる香水である。シャネルの社長が日本を訪問して、理由を散々リサーチした挙句、お香屋さんに入ってその理由を察知したという話もあるそうだ。日本には四季の匂い、高貴な匂い、清潔な匂い、もちろんあまり良くない匂いもある。日本人は匂いから空間・空気を察知しようとするのではないだろうか?

日本人の香りの文化における没個性性、お香文化はヨーロッパとは対称をなすものなのかもしれない。日本人は嗅覚という感覚を用いて匂いから空間・空気を察知しようとするのではないだろうか?逆にヨーロッパ人は匂いからパーソノロジー・人格・人間性を察知しようとするといえそうだ(もちろんこれはフレグランス文化であって、匂い全般という観点から言うと“狭義”だが)。これは文化成立の背景である、島国気質(民族流入の歴史が薄い)、四季性、アニミズム・多神教・神道的な世界観が、文化に置ける嗅覚の認知対象をかえているのかもしれない。

「白い匂い」香りのホワイトノイズの定義

(2013/9/3)「様々な波長の光が混ざると白色の光になり、多様な音の周波数を組み合わされてホワイトノイズ(白色雑音)が出来る。同じように、同じ強度の匂い成分を混ぜ合わせることで、白い匂いを作り出すことが出来るという、ワイツマン科学研究所の研究報告。米国の「国立科学アカデミー論文集(PNAS)」オンライン版に掲載された。」「イスラエル・ワイツマン科学研究所の科学者らが、新しい匂い「olfactory white(嗅覚の白)」を発表した」

この研究は白い匂い、これを「発見」したわけではないように思う。この研究の本来の目標点として想定されていたものは、ホワイトノイズに相当する匂いが存在するのかを定義しようとしたというところだろう、と解釈する。この匂いのホワイトノイズはいくつもの匂い物質を、どんなかおりも強く出ないように混ぜ合わせて(閾値の面から注意して、強い香料は少なく弱い香料は多くということなのであるらしい)、ホワイトノイズを作成した。この香りは官能評価によって、被験者にニュートラルなイメージを与えることが証明され、それが‘ホワイトノイズ’を作ることができたという証左になっているらしい。

先生と自分で話してみて、特に注目したのは、どれくらいの種類の香料を混ぜると、ホワイトノイズとしての性質が出てくるのかという点である。論文によれば20-30種類と結論されている。研究室のこれまでの匂い再現方法の検討の結果、ある程度のそれらしさで匂いを再現するためには要素の数を30種類くらいは用意したほうが良いという結果がある。自分のほうとしても、香料を調香する際に20-30種類で香料を作ったほうが、イメージのシャープなものができるという経験則を教わることを話した。30という数は興味のある数である。

また本文は読んでいないが、 読み終わったらまた改めて書く。

Perceptual convergence of multi-component mixtures in olfaction implies an olfactory white
New Smell Discovered | Olfaction & Olfactory White | LiveScience
匂いのホワイトノイズ | スラッシュドット・ジャパン サイエンス
白い匂い(ホワイトスメル)を作り出す:世界の最新健康・栄養ニュース
11/26 Olfactory Overload Causes White Smell :: サイエンス|yaplog!(ヤプログ!)byGMO
masah行伝ふう, イスラエル・ワイツマン科学研究所の科学者らが、新しい匂い「olfactory...
aroma research, 55(vol. 14, no. 3), p52-, 2013 (外池先生の論文紹介)

映画「風たちぬ」を見たので考えたことを書く

この映画、宮崎駿自身が色濃く主人公に投影されている、等との論評もあるが、自分はそうは思わなかった。純然と飛行機の設計家、堀越二郎を題材として、その半生を映画にしたものだ、と自分は感じた。

(注意)ストーリーに触れる部分があります(ネタバレあり)。

宮崎駿のある程度の年齢向けの作品においては、主人公の男性は宮崎駿自身がなりたかった人間像、ヒロインの女性は自分がもっとも憧れる女性像をあてがっているように思う。こう感じ始めたのは、もののけ姫の辺りからである。アシタカは理想的な男子として描かれており、ヒロイン役は監督自身がもっとも憧れる女子として描かれている。宮崎駿の映画は、主役級の登場人物が理想的な性質を持っていて、その前提にストーリーが展開してゆく特徴があるように思う。映画のなかで宮崎駿が主人公役の男性像として、自分がなりたかった男性像を当てはめるようになったのは魔女の宅急便以降なのではないかな、と思う。よく言われることではあるが、「ラピュタ」以前の作品では男性登場人物の理想像として印象は希薄で、映画を作成し始めた頃より宮崎駿のヒロイン像は監督自身の理想像が強く現れている。特にナウシカなどは、ヒロインが主人公が持つべき英知や決断力を持ってしまっているので、常人ではないヒロインになってしまっている。もののけ姫では主人公役とヒロインに自分の理想像を分離して賄わせているので、作品としての完成度を上げることができているという。

今回の主人公・二郎も、健やかな気質と英知と自分の中に吹き荒れる風とをもって、飛行機設計の中核にまで上り詰めた「男として憧れられる男」である。この理想的な英知と決断力を持った主人公に加え、今回の映画においても、監督がもっとも憧れるヒロインが登場する。

だが映画の展開としては、悲劇と捉えてよいだろう。観客の欲求を作品が代理して、観客の達成感を賄うタイプのエンディングではないのである。夢が果たされるものの、その後すべてが潰えるさまを描いている。その意味において、この映画は子供向けではなく、大人向けである。

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今回の作品のテーマは、ピラミッド、10年の仕事、ヒロインの純愛であろうと思った。

ピラミッドは仕事の到達点、社会的地位の到達点、階級における頂点を意味している。ちなみに主人公の二郎はピラミッドの頂点に至った。映画で言うと二郎の試作機が軍部の要求性能を大幅に上回る成果をあげた時点である。モデルにしている史実のとおり日本は敗戦したから、そのピラミッドは戦時中のみの物であって、敗戦時に崩壊(作中の言葉を借りれば破裂)してしまうのだが。

10年の仕事。作中では何回か、カプローニが登場し、風は吹いているか、と問いかける。風は、情熱であり、力を注ぐべき仕事が眼前にあり続けている状態を示している。風はどこから吹いてくるのかはわからない、自分の中からかもしれないし、自分の外からかもしれない、風が吹いているときには回りの音は聞こえない。主人公の二郎は風にのって高く高く上って行く。途中、自分がピラミッドの頂きに至りつつあることを知る。それが良いことなのか、悪いことなのかは、作中には示されないし、最後になってもわからない(自分にもわからない)。しかし二郎は自身の英知と努力と技術者としての純真さでその頂きに登り詰める。

ヒロインの純愛について。菜穂子は二郎に対して、すべてを捧げている。もちろん二郎も菜穂子に対してすべてを捧げている。そして菜穂子は二郎の仕事が結実することの意味はさほど理解してないし、理屈でわかる必要は感じていない。その横顔だけを純粋に尊重し、自分も二郎の一部であって、二郎の仕事だけが自分の達成すべきことなのだと思っている。そこには打算とか、生涯を安楽に生きるとか、という意図は全くない。菜穂子が結核を患っていることは、二郎の仕事にとっては(そしてこの作品の完成度にとっては)良いことだったのかもしれない。きちんと結婚し、子供が出来れば、菜穂子にとって二郎の仕事の結実は、もっとも重要なものではなくなってしまうからである。菜穂子に子供がいないからこそ(さらに言うとその意図を持っていないからこそ)、主人公の仕事が自分の全てであって、そのような恋愛であるから純愛なのである。

菜穂子の病が重篤化し療養所に一人で何も言わずに戻ったのが、己の美が失われてしまうからではないかとしている解析を読んだ。僕は美が失われてしまうからではないと思っている。美が失われる面もあるのかもしれないが、二郎の足手まといになり、彼の仕事が達成せられなくなることを怖れたのである。黒川の妻が、二郎の妹加代が菜穂子を引き留めようとしたのを制したのは、そのためであろうと思った。黒川の妻も、会社が為そうとしている仕事を肌で感じており、加えて菜穂子が二郎に全てを捧げていることを知っているからである。黒川の妻が言う「美しい所だけ、好きな人に見てもらったのね」という言葉は、見た目の美しさだけでなく、日々の振る舞いを通じて伝播するその純愛の一点の曇りもない所をさすのだろうと思う。

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物語の結実について。

主人公二郎は最終場面、カプローニとの対話のシーンで「最後はボロボロでしたが」という。これは終戦という時代の流れのなかで飛行機のプロダクトとしての性能が敵国に劣るようになり、国が滅び、会社が崩壊したこと(ピラミッドが崩壊してしまったこと)と、菜穂子が死んだことである。二重の災難で、彼には何も残らなかった。戦後において、彼にはピラミッドも家族も残らなかったのだ。主人公の仕事は現代の冷静な視点では評価されるであろうが、昭和の時代には封印されていたであろう。主人公自身の人生と、ヒロインの命を費やして、成し遂げられた仕事が瓦解して、無に帰すという事実がこの物語の結実なのである。

宮崎駿監督が憧れたものには、実際にはこのようながらくたの結果しか残っていないという悲劇が描かれている。純粋な思いだけが構築する10年。二郎の風が吹き荒れるその仕事と、菜穂子の己の命も愛の見返りをも求めないその10年が、仕事を結実させた。菜穂子の二郎に対しての愛が純粋であればあるほど、その代償として結実したはずだったピラミッドが無惨にも瓦解してしまう物語の結末は悲しい。本当の純愛の結実が死だったこと、監督自身が自分の作品であるにも関わらず涙を流した理由なのではないだろうか?狂気的な自分の風が最愛の女を死に追いやってしまった。それでも風が導くところは変わらない。荒涼とした飛行機の残骸が散らばる丘なのだ。

自分としては結論が出ていない疑問点もある。菜穂子が二郎のメガネをはずすシーンが、「きれいな私を見れるのはこれが最後」という隠喩である、という説。加えて最後に荒涼とした崖の上で二郎と菜穂子が再会するシーン。前者は菜穂子の怒りや絶望がもとにあるのだろうか?後者は菜穂子の許しを意味しているのか?わからない。許しを意味するのであれば、その前に怒りや絶望があるのではないかと思うが、それがあっては純愛ではないような気がする。それとも完全に純愛が失われてしまったのか?愛が失われたのちにその主人公を許す?だがそのための贖罪というものは存在しえないのではないか?と自分では思う。むしろ許しが必要だとすれば、二郎自身を菜穂子に許させる場面こそが、二郎の欲求としてあるのではないか思う。ここの部分は自分としては解釈が繋がっていない。また、最後の一場面でカプローニが「向こうにワインも用意してあります」という場面。この意図が、祝いなのか(さらには祝いなのであれば何の意図なのか)、酔いによって現実を忘れようという意図なのか。解らないが、この場面で上等の酒をあけるのは、なかなか相応しいような気がする。

この映画は「紅の豚」と対をなすのではないかと思った。紅の豚は格好良さと飛行機の美しさを追求した、スカッとする男の遊びだった。そしてこの映画は同じ飛行機というテーマをもって、格好良さと女性の素晴らしさを描きながら、有限の人生のなかで男にとっての仕事とは?女にとっての愛とは?という問題を現実的に問うているように思うのである。最後のシーンに出てくる「飛行機が流れる一筋の雲」が「紅の豚」に出てきたそれと同じなのではないかという気もしている。

なお、作品では「それでも生きなくてはいけない」という結論が提示される。「風は吹いているか?」つまり何らかの情熱が流れ、為すべき仕事が眼前にあるのか?そうであれば為すべきなのだ。そして女の人にとってそのような男を自分のすべてを費やして支えるということは、子供を持って育て上げることや、自分自身が仕事を作り上げることとは違った意味で「人生の結実」なのではないかと思う。まさにそれが純愛なのだろう。

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個人的な感想を付け加えさせてもらうと、菜穂子に対しては、本当に可愛らしいと思うし(このヒロイン像に対して「生涯でボクだけを愛して死んでってくれたらなあ」という願望、と解析しているブログもありました、エグいがかなり納得)、二郎に対しては男として惚れてしまう格好良さだなぁ、と思う。

以上。上記の解釈は製作者側とは無縁の一個人の現時点の感覚です、詳細で妥当な読み解きが提案されることを期待していますが、31歳の自分がこの映画を見れたことはよかったと思ってます(自分はもっと小心者であって、計算高くあろうとします)。

筑摩書房 宮崎駿の<世界> / 切通 理作 著

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自分なりの旅の七つ道具

旅の7つ道具という話がインターネット上に置いてあって、見てみるとなかなか面白かった。

自分の場合は、フランスに3ヶ月間ほど行っていたことがある。2004年頃、インターネットが現在のようにリアルタイム性のあるものでなかった。大学生だった。初めての一人の海外だったので、とにかく荷物が多くなってしまった記憶がある。当時素晴らしく活躍したものは、windows2000が入ったフルサイズのノートパソコン、東芝のデジカメ、オピネルのナイフ、携帯サイズの日仏辞典、変圧器とコンセント変換器、フロッピーディスク(USBフラッシュは出始めの頃だった)である。ビックリする事だが、確かクレジットカードを持っていったが、ほとんど切らなかった。自転車、カトラリーと食器を現地で調達した。

その後、何度か国内、海外にいかなくてはいけない場面が発生した。最近、長めの滞在をする事になったのは、韓国に4泊ほどした学会である。スーツを着用する必要と、割と長い滞在だった事と、ちょうど良いスーツケースを持っていなかったことから、フルサイズのスーツケースを使用したが、その決定は誤りだった。できるだけ旅の荷物は少ない方が良いに決まっている。

という訳で自分なりの旅の七つ道具を考えてみる。遊び編ということで。

  1. i-phone 4S (sim lock free)
  2. blackberry
  3. ノイズキャンセルイヤフォン (i- phone用)
  4. クレジットカード
  5. スイムタオル(セームタオル)
  6. サンダル→(革)靴
  7. 香水

blackberryが入っている理由は、wifiさえつながればセキュアにメールが取り扱える上にプッシュ配信だから。韓国に行った際に使用してみて、本当に便利だった。機械式のフルキーボードは長時間の文字打ち込みでもそう苦にならない。ブログ及びブログには転記しない日記の作成を、自分は毎日しているが、現在では半分位はブラックベリーから作成していると思う。本気のブログ作成を連日しようとしない限りはノートパソコンは必要ないのではないか、というのが今の自分の感覚。加えてフォーマルな恰好をする必要がないのであれば、かなり荷物は圧縮できる。香水はないと死んでしまう。付けずに外に出るのは嫌だし、シャワーを朝掛かったら付けたくなる。自分には写真の趣味はないので、カメラはiphone 4Sのもので充分である。また、バラエティは少ないがiphoneのドックにつないで使用するノイズキャンセルイヤフォンが存在し、これを使用すると飛行機内など快適である。

ちなみに仕事編だと、ノートパソコン、スーツ、革靴とシューキーパー、替えのワイシャツが必要で、そうなるとスーツケースが一回り大きくなる。電源用のコンセント変換器やタコ足も必要。国内旅行では、風量で備え付けのものが気に入らない事が多いヘアドライヤーは必要。

1週間以上の長期になるのであれば、食器類一式(箸・スプーン・フォーク・ワインオープナー(ソムリエナイフ)・オピネルのナイフ)、トラベルポット、コップが個人的には欲しい。また遊びであってもパソコンに向かい合う時間も必要になる気がする。

遊び編で挙げた7品に下着類や洗濯石鹸、グルーミングセットを加えて、本当にコンパクト化すれば、30-40Lの容量で海外にいけるものかもしれない。服が一番の問題で、フォーマルな格好でないと入れない場面があれば面倒だが、カッターシャツ・ニット・チノにダウンを上手に組めば行けそうな気がする。

(9/16) サンダルも必要だが、やはり靴のほうが必要な気がする。信頼できる靴はどこでも買えるものではないからなぁ。革靴の必要のない旅行シーンも結構あるが、自分の場合に関して言うと、足にぴったりで、きれいに磨かれた皮靴を履いて街に出られるのはワクワクする気がする。逆にサンダルはどこでも買えるし、そこまで高いものではない。

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