良い香り。「年齢別香水の選び方」

香水の選び方は難しい。特に香水を意識し始めたばかりの人々には難しい。

香水に限らず、香りには本来2種類しかない、良い匂いなのか、悪い匂いなのか。ある程度訓練をしないとそれ以上の判別は出来ないのである。「訓練」というと大げさである。ただ単に匂いと名前を結びつけるだけなのだ。

例えばレモンとライムは結構匂いは似ている。でも意識して接していると、匂いだけで緑色の苦いライムなのか、黄色のふんわりしたレモンなのか想像できるようになる。次第にジントニックにライムを添えるか、レモンを添えるかその日の気分を踏まえて使い分けが出来るようになる。香水も似たようなところがあって、(例え古いかもしれないが)普段はブルガリプールオム、ジーンズにはダビドフのクールウォーター、きちんとしたスーツにはdiorのj’adore、といったように使い分けていたりすれば段々と使い分けが出来るようになる。匂いの名前とその匂いが一致するためには注意してその匂いを使うことが必要なのである。そして使い分けたりしているうちに、周囲の人々の香りの使い方に関しても鼻が行くようになる。そうしながら色々な匂い、それらの使いこなしがわかるようになって行く。「訓練」というと大げさである。ただ単に匂いと名前を結びつけるだけなのだ。匂いと名前を結びつけるのは匂いと対話する、匂いのオーラを味わうということなのかもしれない。

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今日の銀座三越のイベントでは香水の使いこなし、年齢別香水の選び方に関する談話だった。好きな匂いは好きな匂いとして持っておいたら良いのだけれども、年齢別に特にマッチする香調というものがある。年齢を重ねた男の人にはフゼアが似合ったり、結婚している女性にフローラルフローラルが似合ったりといったことである。それらは知っておいて損は無い。白いカッターシャツや黒い革靴が大多数の人に似合うようなものである。

パブリックな場所でマッチする匂いを着けるということは、紳士服で言うと、きちんとしたレストランや観劇に行くときに革靴と上着を着てゆくとか、そういうレベルと同じだと思う。先ほどの年齢を重ねた男の人にはフゼアとか、結婚している女性にフローラルフローラルといった例は、奇をてらわない定石的なものである(正直言って面白みは薄いかもしれない)。

付け加えればカジュアル~スポーティな男の人にはシトラスフレッシュが似合ったり、カジュアルな若い女性にフルーティフローラルが似合ったりといったことである。オリエンタルとかグルマン(お菓子系)とか、その他の香調は変化球的なものとして揃えて行ってはいかがだろう?とイベントでお話を聞きながら思った。

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イベントでは講師の先生にかなり最新のトレンドの香りを見せてもらいました。自分のツィートのほうもご存知ということで、より一層中途半端なことは出来ないな、と背筋を正したくなる思いがしました。

銀座三越でフレグランストークショーを行いました|地引由美の「香水の選び方・まとい方」Twitter

ヘンリー・ダーガー展 「承認ゲーム」、ガラクタ、キュレーション②

現代という時代において、プロフェッショナルの作品よりも、内輪で楽しむためのアマチュア作品、従来は価値を見出されていなかった分野での作品つくり、自分のために創作する、他者に見せるためではない作品作りに重心が移動しつつある。もしかしたらキュレーターにより、時代のスポットライトが当てられルかもしれない。

だがスポットライトが当てられていない状況下では?

趣味で絵や音楽を作る人々、自分のように、確固とした立場を持たないブログ製作者などは作り続けても書き続けても収入には繋がらないし、見る人もわずかな家族や友人のみ、専門的過ぎる場合には自分しかその価値が分からないまま作成を続けている場合もある。そんな状況はヘンリー・ダーガーの作品製作の状況とほとんど同じである。これらはガラクタなのではないか?ガラクタばかりが、このヘンリー・ダーガーの死後アパートに残されたようなものばかりが、この世界を埋め尽くしてしまうのではないか?そう感じてしまったら?

そもそも芸術に限らず作品には2つの特性があると考えられていた。周囲に向けた発信と、自分の中で何らかのものを練り上げる過程だ。人間は感じ、考え、そして発信をする。理解のために必要な消化活動、理論的な思考、共感、自分の為している事は何なのか、成そうとしていることは何なのか、考え発信すべきではないのかと思った。

だがそのような対比は不要なのではないか?自分の発信するものを全て理解している必要などそもそもないのではないか?個人が自分自身をコーディネートさせ調和する必要がなくなりつつある、とおもう。コーディネートはキュレーターが為し、感覚と理性を摺り合わせて調和してあげればよいのだ。アウトサイドもインサイドも緩やかに繋がり、そのような区分けは無意味化する。

「個人の自由」とか「社会の承認」とかかつてからある成熟した社会人の特性全てを個人個人が内在化する必要性が低下しているのはないかと思うのである。緩やかな他者とのつながりの中で、自分の中で処理しきれない単発的な情報も、作品も、そして感情や感覚すらも発信することで意味を与えられたり、助けられたりしていくのではないだろうか?

ガラクタなのか作品なのか、周囲に向けた発信なのか自分の中で何らかのものを練り上げる過程なのか、その境界はどんどん曖昧になるだろう。人々の単発的な情報も、作品も、そして感情や感覚すらも世界の中に漂い始め、それらは発信者の意図からも理性からも感覚からも自由に、自由にくっついたり、意味でタグ付けされたりとクラスター化してゆくはずだ。そこには覗き見だとか恥だとか旧来の次元での感覚は薄れてゆくのではないか?

社会の総体として、より多くのものが理解され、より多くのものが共感され、知識が蓄えられ、「価値ある行為」が為されるのであれば、個人個人が他社の視線を内在化する必要性もないのかもしれないし、すべての人に承認される必要なんてないのではないか?「価値ある行為」と「空虚な承認ゲーム」という二項対立なのではないと思う。それよりも優しい関係を大切にしながら、社会の総体として多様性を保持し、より深く、より広く、より多角的な世界を作ってゆく方向へと向かっているのではないだろうか?

もちろん自身の理性、感性、知を高めて行くことは必要だ。そうすることによってより深く、より広く、より多角的な世界を作ってゆく方向へ貢献できるはずだからである。

参考
1.TAB イベント – ヘンリー・ダーガー 展
2.「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 – 情報考学 Passion For The Future
3.Amazon.co.jp: キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書): 佐々木 俊尚: 本

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ヘンリー・ダーガー展 「承認ゲーム」、ガラクタ、キュレーション①

現代という時代、特に日本を始めとする先進国において、「社会とコミュニケートできている/社会とコミュニケートできていない」の境界は更に低いレベルのものになっているように思う。インターネットの発達により、以前ほどの量の社会的コミュニケーションを取らなくても必要な物資は入手可能になってきており、インターネットの発達により、同系統のタイプの人間同士での共感が容易になった結果、共感できない他者とのコミュニケーションを避けても短期的には問題が無い状態になった。そして自由であること、多様性があることへの手放しでの礼賛。この結果、「社会とコミュニケートできている/社会とコミュニケートできていない」の境界は更に低いレベルのものになっている。

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ブログ「情報考学 Passion For The Future」1)では新書「「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代」2,3)の内容に関して

「著者は、価値ある行為を行う、それに対して、他者から承認を受ける。この基本ルールが人間の成長につながっていたという。子供はまず親による親和的他者の承認から価値を学び、やがて仲間や学校における集団的価値を学び、社会一般の価値を学んでいく。そして人間関係が広がるにつれて「一般的他者の視点」を身につけて成熟した社会人となる。

だが現代では見知らぬ他者の承認を意識から排除して、身近な人々の言動ばかりを気にする。ソーシャルネットワークの内側に閉じこもることが容易になっていることもあるだろう。インターネットは世界と向き合うこともできるが、逆に仲間内に閉じこもることもできる。著者は、「価値ある行為」よりも、内輪の空気を読むコミュニケーションに終始する「空虚な承認ゲーム」の時代になった、と現代を定義している。「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤ではなく、「個人の自由」と「身近な人間の承認」の葛藤。価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、自己価値への直接的な他者の承認を渇望している。

著者は、道徳的価値(「努力」「やさしさ」「勇気」「忍耐力」「ユーモア」)を足がかりに一般的他者の視点へと至る道が重要、と提言している。」

と纏め、反面、

「この問題、あまり心配するようなことではないのかもしれないとも思う。優しい関係を大切にするようになったことは悪いことではないし、これに対する反動が昨今の若手の社会起業家活動の背景にあるようにも思える。

若者の価値観の多様化と普遍的価値観の喪失を嘆くのは、自分たちの声が届かなくなることに対する古い権威たちの嘆きだともいえるだろう。」
としている。

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現代という時代において、プロフェッショナルの作品よりも、内輪で楽しむためのアマチュア作品、従来は価値を見出されていなかった分野での作品つくりにより強くスポットライトが当てられているように思う。自分のために創作する、他者に見せるためではない作品作り。作品つくりの手法もだんだん変わっていく。従来の見方で測れば完成度や成熟度が足りなかったり、全く文法が違うために理解に苦しむ完成度、洗練度を持ったりしている。そしてそれらは大概、一般の人々に受け入れられるような紹介文は付いていない。ガラクタ?混沌化が進み、バルクの情報ばかりが増大しているかに見える。

そのような状況であればこそ、プロ・アマの境界の薄くなった広大な作品群に対してそれらを整理、体系化、そして一般にも理解されることを促進するためにキュレーション4)が重要なポジションになっている。そしてこの流れはアートの重心をシフトさせていくことにも繋がる。今までのプロフェッショナルばかりでは誕生してこないであろうアートが生み出される可能性もある。
「価値ある行為」よりも、内輪の空気を読むコミュニケーションに終始する「空虚な承認ゲーム」を生んでいるのも現代なら、新たな作品とキュレーターを生み、時代のクリエートを強力に推進するのも現代なのかもしれない。(続く)

参考
1.「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 – 情報考学 Passion For The Future
2.Amazon.co.jp: 「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書): 山竹 伸二: 本
3.山竹伸二の心理学サイト | 臨床心理学,精神分析,心理療法,カウンセリング,哲学
4.Amazon.co.jp: キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書): 佐々木 俊尚: 本

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ヘンリー・ダーガー展 覗き見をしても良いのか

ヘンリー・ダーガー展1,2)に行ってみた。基礎知識をwikipediaより以下に。

「ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892年4月12日 – 1973年4月13日)は『非現実の王国で』の作者である。…誰に見せることもなく半世紀以上書き続けたが、死後にそれが発見されアウトサイダー・アートの代表的な作家として評価されるようになった。彼の作品(物語・自伝・絵画)に関しては、ジェシカ・ユー監督の映画「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」で一部を確認することができる。…」3)

「『非現実の王国で』(ひげんじつのおうこくで、In The Realms of the Unreal)、正式には『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』は、ヘンリー・ダーガーによる物語である。アウトサイダー・アートの代表例とされる作品…」4)

新書「キュレーターの時代」5-7)でも「キュレーターが彼の作品を美術界に紹介したことでアウトサイダー・アートという重要な潮流を生み出した」と、名前が挙がっていた。

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ヘンリー・ダーガーは他者に見せるため、ひいてはその作品を通じて他者とコミュニケートするために作品を作成していたわけではなかった、と僕はこの展覧会を見て改めて痛感した。赤の他人である自分が、彼の作品を見ているという状況自体が彼の意図ではなかったと思う。様々なヘンリー・ダーガーの研究によると、彼自身は他者と現実の世界ではコミュニケートする人間ではなかったようだ。彼の作品を自分なりに見てみた結果は、「現実世界からの彼のための抽出物」、「彼の憧れと欲望と正義と戦い」……。ヘンリー・ダーガーは、外部からの刺激を自己の中で消化するために、自分の中で彼自身の正義と自尊心と破壊衝動を調和させるために書(描)いた。その目的が達せられた結果、それらの作品はアパートに残されたのではないだろうか?彼は社会という次元で言えばアウトサイダーだったし(文字通り社会生活を送れている/送れていないの境目に生きていたのではあるまいか?)、作品は彼を中心に捉えれば完全に彼のインサイドへ向けられたものだった。

絵を見ていて共感する・共感しないという次元ではなく、心理学的に解析してしまっている自分が居る。しかし自分は心理学者でもなく、精神科医でもない。彼も彼を取り巻く人々も、ヘンリー・ダーガーを診察させたり、矯正させたりしたいと思っているわけでもない。ものすごい違和感を感じた。端的に言って、覗き見なのではないだろうか?と。

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新書「キュレーターの時代」では、これからの時代はインターネットによるエンドユーザーtoエンドユーザーの関係の深化によって、人々の中に眠っているアウトサイダーな作品たちをキュレートするのが重要な潮流になると結論している。

だがこの動きにも自分は共感しない。アート作品が力を持つわけではなく、アーティストが力を持つわけでもなく、紹介者が力を持つ状況とはどうなの?と思っている。プロフェッショナルなキュレーターであればまだしも、アートにそこまで芸術は個人個人が作成したり、共感したりするべきものなのではないだろうか?第三者が絡んで行き、大きなムーブメントを仕掛けるのは本来の芸術から遠いし、審美眼とは相容れないのではないだろうか。

そもそも芸術に限らず作品には2つの特性があると思う。周囲に向けた発信と、自分の中で何らかのものを練り上げる過程だ。周囲に向けた発信とは、他人の欲しているものを発信する、他者に自分の理解させたいことを発信する、自分と他者が共有・共感できるコト・モノ・感覚を発信する、といった内容だ。自分に向けた発信とは、外界の刺激を自分の中で解釈する行為、何らかの出来事を消化する、あるいは特に自分に必要なものを抽出する行為、といった内容だ(もちろん自分の欲求を満たすための自慰行為てきなものも含まれる)。そんな自分に向けた発信を、露出狂でもない人間の自己に向けた発信を覗き見てしまっても良いのだろうか? (続く)

参考
1.TAB イベント – ヘンリー・ダーガー 展
2.基本情報・アクセス|ラフォーレミュージアム原宿 イベント情報|ヘンリー・ダーガー展~アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国で』|株式会社ラップネット
3.ヘンリー・ダーガー – Wikipedia
4.非現実の王国で – Wikipedia
5.Amazon.co.jp: キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書): 佐々木 俊尚: 本
6.キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書) – はてなキーワード
7.佐々木俊尚公式サイト

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従兄弟の結婚式

いとこの結婚式があった。弟の結婚式では調香をしたフローラルブーケタイプの香水を準備したが、いとこに対して何も準備しないのは悪い気がしたので、とりあえず一番最近調香したローズの香料を京都でアトマイザーに詰めて渡した。シングルフローラルの域を出ないが、精油よりも面白い香気になっている筈である。

今ローズに限らずシングルフローラルに関して、保留剤と下から出てくる重たい甘みの2つのテーマに関して個人的に研究をしている。ミドル~ベースにイオノン系のものが入っているとシングルフローラルに上手に甘さが付与できる。やりすぎると違う花になってしまうので注意を要するが、生の花とは少し違っても良いから甘さが欲しいとき、化粧品的な温かさが欲しいときには有用だ。

イオノン系を上手に配したベーストーンを選択してやることでなかなか良いローズが作り出せている。それでも匂い始めとラストの匂いにかなり差があり、特にトップの終わったあたりでテルペン系のがさついた感じが取れなかったので、保留剤を検討し始めた。保留系~ベーストーン~テルペン~トップアクセントの4つに分割して配合を検討して、保留系をかなり増やしつつもトップアクセントを倍増させたり、テルペンを微増したりして作ったのが従兄弟に渡したローズである。不満な点、未調整の部分はいくつもあって、特にトップアクセントのエーテル原料はローズの調合品では初挑戦なので配合が煮詰め切れていない。またアルデヒドをどこまで効かせるのか、最終的にどのアルデヒドがベストなのかも煮詰まっていない。

いずれの調香においても、きちんと出る香り、焦点の合っている香り、調和感のある香り、紙につけて経時で見てもほつれてこない香りが今個人的にはテーマである。そのためにかなり重要であるのは、ベーストーンの煮詰め、最適な保留剤の最小使用量の見極めかなぁと思っている。

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いずれにしても直接本人たちに挨拶する時間があまりなかったので、いささかお決まりの言葉ではあるが挨拶しておく。

ご結婚おめでとうございます。

私事を申しますと、関西から関東に引っ越す際にイギリスから一時帰国して彼女さんも遊びに来ていた下宿に泊めてもらった事があります。お邪魔するのも悪いなぁと思いながら、自分のほうとしても切羽詰っていてお酒を飲みながら夜中までしゃべったような気がします。

本来学術的な指向性を持っている私としましては、第一義的にぜひとも学術的な研鑽を極めて欲しい、良い仕事をして欲しい、と思っております。また二人は公的にも私的にも色々な障壁を乗り越えなくてはならない場面に遭うことと思います。ぜひとも智と理性と感性を以て、調和と協和を目指して下さい。私も微力ながら協力して行きます。

また、我々従兄弟同士で楽しく飲める機会があったら良いなぁと思っております。

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