自分について、自分のテーマについて②

東京都市マラソンが今日開催されていた。色々な人が走っている。レースという環境での選手としての結果を求めて走っている人、いつも走っている人、この日の為に準備していた人、テレビの企画のために走っている人…、軽い気持ちで参加してしまった人も幾らかは居そうだ。みんなゴールを目指して自分を進めてゆく。もちろん足が痛くなりながらも走っている人もいるし、時々走りながら歩いている人もいる。ゴールできる人もいれば、途中で棄権する人も居る。走る目的も色々だし、それぞれに意気込みも違えば、背景も違う。だからこそ・そして、走っている速度も異なれば走って得た結果も(成果もタイムも)異なる。

世界も同じだ。みな世界の中で走っている。速度も違えば結果も違う。客観的な成果を測る物差しはいくつか一応存在する。経済的成功であったり、ポジションの獲得であったり、心理的な満足感であったりする。だが人それぞれだ。経済的には成功せずとも、心理的に満足を得るかもしてないし、人生の全てを賭け幸せな生活を捨ててポジションを獲得する人もいるだろう。みんな“ゴール”を目指している。もちろん足が痛くなりながらも走っている人もいるし、時々走りながら歩いている人もいる。ゴールできる人もいれば、途中で棄権する人も居る。

前投稿に書いたように、自分のポジションとしてある程度のことが決まってきたので報告したい。引き続き、「個人的なこと」であるが、ここ1-2ヶ月の顛末に関して書く。

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今走り出そうと思う。大学の研究として、香りの学術研究をしたい、それをスタートするのだ。
もちろん今までも走ってきた。香りの研究の既存研究に可能な限り触れて来た、香りを知るためにはまず「香りを作ること」と考えて調香について徹底的に勉強してきた。どこをスタート地点にするべきか、どこをゴールにするべきか、ずっと探していた。2011年の秋、やはり大学研究としてやるべきだという結論に至った。

テーマは香りの数値化、ゴールは香りを数値として表せるようにすること。もちろんこのテーマには副次的に、香りはどのように構成されているのか、匂いの生体受容システムはどのようになっているのか、機械装置として匂いセンサーはどのようなものが望ましいか、等の課題が付随する。しかし「香りを数値として取り扱えることを目標とする」というテーマを据えれば、その後センサーデータの数値化を実用化したり、データ化した香りの情報を商業的に展開したり、データ化した香りの人間への影響を科学的に解析する人文科学へ学術的に展開したりすることが可能になると考えた。ただ/もちろん、どのように研究を確立したらよいのか方法論はまだ無い。このテーマをどこで考え、確立方法をディスカッションできるようにするか?おそらく企業では出来ない、大学機関か独立行政法人のような半官の組織でのみ可能となるだろうと考えた。スタート地点は大学の研究室だと考えた。

それなりに検討はしたものの、中心テーマに据えることはしなかったテーマも幾つかある。香りの受容体機構にホスト~ゲスト科学でアプローチする、嗅覚受容体から得られてきた情報がどのように脳内で処理されているのか脳科学的に調べる、微量ストロング香気成分の分析・開発、匂いセンサーの開発、等など。しかしこれらは生化学的研究、脳科学的研究(人文)、農学的、工学的な研究となり、既存研究がある。

「香りを数値化してゆくこと」に繋がる研究は既存には無い。香り・嗅覚に関する科学的解析するの研究分野はあったのだが、香り・嗅覚を応用してゆこう、という研究は未知分野だと考えている。そしておそらくこの研究は現在最も強くこのテーマを訴求しているN先生の下でこのテーマを進めることが近道だと考えた。

研究に取り掛かることを中心に据えれば、このN研究室で研究をスタートする以外のスタート地点は考えられない、というのが現在の考えである。おそらくセンシングと一体になった研究として展開することになるが、センシングと一体になった研究として展開する以外に学術研究としてのスタートは切れないのではないかと考えているのである。

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先の投稿に書いたとおり、実は研究をやめようかと一時考えた。それは博士課程の学生としては認められなかったからである。これは実はかなり堪えた。自分にも自分のテーマにも、その資質が無いと言われたように感じた。やっても自分には無理そうなら、やるだけ無駄なテーマなら、やっても意味ないじゃないか、と考えてしまったのである。

まずY先生に助言を求めた。Y先生からは「研究では冒険が必要」「実生活の方は安定志向がよい」との助言を貰った。電話とメールで何度かのやり取りに付き合っていただき、「N先生と自分との信頼関係が未知数」「自分は博士過程に押すほど買われていないのでは?」という2点についてもう一度N先生に会って確認すべきという結論に至った。

Y先生が強く助言してくれた事がもう一点、K先生からの助言を貰うように助言してくれた。K先生の助言を拒否して会社を辞めた自分だったが、K先生は丁寧に返信をくれた。その返信の意味はいくつにも取れるものだった。
• そんな方向へと無謀にも舵を切っている自分にたいして、止めておけばよいのに
• 自分こそ研究者としての最後のチャンスなのだから、全力で抜かりなくやれるだけやってみれば良い
• 「言うべきは全て言ったのだ」という事なのかもしれない
• 明らかに言える事、明らかに諭さなくては手遅れになることには、「選択をする場面なのですし、選択は自分がなさなくてはいけません」ということなのだ。
• 電話では可能性は潰したくない、きちんと考え、見極め行動しろ、といっているようにも聞こえた。
K先生の不安と激励を同時に感じたように思った。だがその後、父や学校の関係者と話をしていてK先生の言外の意味をもう一つ知った気もする。それは「自分自身で判断したことには力が出るもの」という言葉の意味である。自分の信念がなければ決断はできないし、自分を信じられないと自分の集めてきた情報(つまり集める学術情報、さらには他者として誰を信用するか)に基づいた判断も下せないし、自分にきちんとした力が備わっていなければきちんとした情報(学術情報、他者)も集めることは出来ない。つまり今回、未知のものへ踏み出す決断は「力もいること」だし、「今まで自分が作り上げてきた力も試される事」でもあるわけである。おそらくK先生はこのようなことを念頭に置かれたのではないかな、と思った。

N先生に対して、またN先生の自分への評価をどのように考えるかは、博士課程審査後に忙しい中話をする時間を取ってもらったものの結論は出なかった。しかし月曜日のN先生が中心となっている研究会でN先生は彼が為そうとしている世界を垣間見させてくれた。彼は一緒にこの仕事をしようと言ってくれていたのではないか?そして助ける・教えるではなく、自分の背中を見せてくれたのではないか?と思った。その積りでやって欲しい、と思っていたのではないだろうか?

博士課程の審査にはパワーポイントによるスライドを作らなくてはいけなかった。たたき台を作るのは自分で行い、N先生にアドバイスしてもらった。その後学術的な表記など細かい部分を確認してくれたのがE君だった。スライドのタイトルをどうしようかとE君と悩んだ結果、博士課程における研究計画…というタイトルを付ける事になった。E君は「「研究計画」良い響きだなぁ」と自分のことのように喜んでくれた。旧友がこんな風に喜んでくれるのは嬉しい。自分自身の結果は不甲斐ないのだが、彼の表情を思い出して「それでもやってみよう」と思った。

博士課程の結果を遅ればせながら報告したとき、父からは、何でそれくらいでへこたれているんだ?と言われた。たかだか博士課程への入学が当面不許可になった程度で揺らいで如何するのか?ということである。研究生でやるルートが残されているのに何でへこたれているのか?ということである。そんなことで価値が覆ってしまう研究テーマなのか?結局のところ博士の審査でも、やろうとした決心、強い意欲が見えていなかったのだ。それを為すためには這い蹲ってでも、泥まみれになりながらでもやる、という強い意欲が感じられなかったのだ。決意と、自身のテーマへの信念が必要だったのだ。そう自分はスタート地点にすら立っていないのだ。

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絶望とかの感情は一時的だ。だが選択とか決断は自分を作ってゆく。この2012年3月は徹底的に色々なものに結論を与え、今後の自分を作り上げていく方向に全てを決断しようと、当初より考えていたでははないか?感情なんかの一時的なものに惑わされていてはならないのだ。

結果として当面のポジションは「研究生」である。それでも今走り出そうと思う。大学の研究として、香りの学術研究をしたい、それをスタートするのだ。


N先生…今度お世話になろうと考えている研究室(電気電子工学科)の准教授
K先生…前の大学の研究室(有機化学)でお世話になっていた教授
Y先生…前の大学の研究室(有機化学)でお世話になっていた准教授
E君…前の大学の研究室(有機化学)の同期

自分について、自分のテーマについて

まず報告。かねてより「香り」を学術的にやりたいと考えていた。自分のポジションとしてある程度のことが決まってきたので報告しようと思う。結論としては、大学院(電気電子工学科)で研究をしようと考えている。ポジションは研究生である。本当は博士課程の学生としてスタートできるのがベストと考えていたが、結果として当面のポジションは「研究生」である。(このブログの存続をどうするか、書き続けるとすればどの程度の内容を書くのかについては未定である。何らかの変更をしようと考えている) 今回は「個人的なこと」であるが、ここ1-2ヶ月の顛末に関して書く。

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(2/18のメモより)課題山積である。とても今すぐに自分の始めたい研究を始められるという状況にはない。そしてこれらは自分の「業」によるものなのだろう。結局自分も「自分の為そうとしていることが結実する」確信を得られていないし、N先生や学科の教授たちも「この学生の為そうとしていることが結実する」確信を得られていない。自分が確信を得られていない理由は、今まで自分の為そうとして為しえてこなかった過去の事例に起因する。相手が確信を得られていない理由は、今ここで喋っている人間がキチンと自分に自信を持っていない事が直感的に察知されたからである。これらは自分の「業」の為といえるだろう。

自分自身の中にある自己顕示欲、自分はそんな仕事だけをして業績も上げられずに終わる訳ではないのだという自負、公平性とか他人を侵害したいわけではないのだという妙な正義感、科学と学術が世界を導いてゆくべきであるのだという信条。Y先生の言うとおりである「研究では冒険が必要だと思いますが、実生活の方は安定志向がよい」、自分に業績が付いてこず、自分に確信が得られてないのなら、安全なルートが確保できるうちにそちらに逃れてしまった方が良いのである。

Y先生の言う「研究では冒険が必要」「実生活の方は安定志向がよい」について、いつ見切りをつけるのか。当初は博士課程の早い段階で、と考えていた。研究内容についてもN研究室に入ってから、おそらく共同研究者が必要になる筈であるので、解決してゆけば良いと考えていた。

今は何が揺らいでいるのか?それは基盤であり、自信であり、自身への万能感(万能感とは言いすぎだが、テーマをやり遂げられる確信)が揺らいでいるのだ。もしくは動くのが遅かったのかもしれない。長く安穏とした場所に留まりすぎたのかもしれない、もっと早くに研究生(どうせ博士課程に入ろうとも自分の実力ではそこにストレートには至らず、研究生というポジションを経なくてはいけなかったというのであれば)として、しゃにむに走り始めておくべきだったのであろう。この「早い段階であっても走り始める」という能力が欠如していたことも欠陥の一つだったのだ。

もちろん2012年3月付けで移った方がよいという考えは未だ正しいと思っている。ただし研究を進める上で必要な要素は満たせていなかったのだ。研究を進めるということを中心に考えると2011年10月がベストのタイミングだったのではないかということなのだ。独りで考え、判断している以上、心の俎上に上ってくるファクターが「所詮狭い」のは致し方ないと思う。いままで自分の「業」の為に、自分の仕事へと結実していなかったのではないかと思う。

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一つには「人を信用し、自分を信用する」その方向を目標としよう、ということなのである。一つはキチンと情報収集して判断しようということなのである。自分の「業」の為に振り回されないように。もう一つは当初考えていたルートとして、後1年用意できると思う。その期間、全力で当初の目的どおりにやってみたら良いのではないかと思っている。

絶望とかの感情は一時的だ。だが選択とか決断は自分を作ってゆく。この2012年3月は徹底的に色々なものに結論を与え、今後の自分を作り上げていく方向に全てを決断しようと、当初より考えていたでははないか?感情なんかの一時的なものに惑わされていてはならないのだ。

先ほど「基盤が揺らいだ」と言った。揺らいだのは基礎だ。基礎が揺らいだことは2010年の秋にもあった。経済的な問題が生じてしまったときだ。基礎が揺らぐと、心が落ち着かないから無理も利かなくなる。でもそんな時大慌てで上に建てようとしているもののデザインを変更したり決断したりすると危険だ。そんな時何とか持ちこたえて、新たな立ち位置を捉えなおし、デザインを変更するのであれば落ち着いて情報をキチンと集めて決断するのが良い。

(次回に続く)


N先生…今度お世話になろうと考えている研究室(電気電子工学科)の准教授
K先生…前の大学の研究室(有機化学)でお世話になっていた教授
Y先生…前の大学の研究室(有機化学)でお世話になっていた准教授

改めて、私について、このブログで書こうとしているコトについて

(1/29のメモより)今までして来たことを纏めておく必要があろう。まず、なぜ香りを勉強することになったのかの経緯について。本来は「香りを科学でやる」。つまり「そもそも香りとは何なのか、香りが人間に与えている印象がどう作られているのか、科学的に明らかにする」ということがしたかった。その命題の周辺を明らかにし、当面の研究テーマを定めるために、またただ科学的テーマに向かってゆくのではなく、アドバンテージを持って研究するためには調香を分かっておいた方が良いということである。そこで昼は学校で調香を学び、夜は自学自習で香りの既存の科学研究について調べてゆこう、というものが当初の計画であった。調香に関して学び始める年齢として27歳と「香りの創造」にあったことにも後押しされて、勉強を開始した。

現在、本腰を入れて行うテーマとして、香りの提示装置を用いた演出効果(エンターテイメント的な効果)および、空間演出(リラクゼーションや効率アップといったような、香りの心理的効果)が商業的にも面白い分野であろうと考えている。このような考えに至った背景としては
• 東工大の中本准教授の本を読んだ。気相中で調香してくれる香り提示装置が相当気になった、要素臭が重要となるという考えに科学的興味を惹かれた。要素臭についてはこれが今後、提示装置にとって重要な解明すべきテーマになる、という印象を数回のトライアルから得た。
• 「香りマーケティング協会」というセミナー参加(2011年9月)。マーケティング的にもデジタルサイネージという用途にも重要視されていることが分かった
• 企業の研究者の方に会ってもらった。このカテゴリの面白さを改めて認識した。特に演出するだけで、センサー技術が完成していなくても演出効果のみでも、社会インパクトは大きいものがある
• NICTでの演示研究やCEATECを見る。匂いの演示装置というのは一時期かなり注目されておりハイエンドとしてかなり研究されていたのだが、ハイエンドな研究者はだいぶ手を引いてしまっている。(例;NICT、ドコモ・NTT、たぶん他にもある) この原因については、要素臭が分からないから、匂いのイメージがどのように形成されるか解っていなかったから(そして結局今もわからず、多分このままでは解る見通しも不明)と考えている。
• 脳科学の外池先生や斉藤幸子先生に会ってもらう。脳科学・心理学的な解析、科学研究を並行していったら有用な研究結果が得られるのではないだろうかと考えた。
• 藤森教授と会う。もともとはこの先生の本を読んで、香りを学術的に体系化したら面白いと思い至ったのである。既存の香料技術はGC分析と官能評価・調香・処方が「中心技術」となっていた。藤森先生からもいろいろと教えてもらいたいと考えている。
というものが今の自分の考え方を作ってきた。まず香りに関しての知見をより強固に収集してゆく。なお、やりたいことは多分野にまたがっている。しかしそれらは相関しているから、それらを複合的に解明してゆくことで香りの実態に近づけるはずだ。

今まで、音にしても映像にしても、センサーの開発の後にメディアへの記録技術と再現装置の開発がなされていたが、匂いに関しては提示装置、匂いデータの蒐集、センサー技術との統合という順序で為されても良いのではないか?

再び時間が空いてしまった

本来このブログは一日一報くらいの更新頻度であるべきはずのものなのだが、なかなかそれは実践できない。「ドラッガーの学習方法」というタイトルの勉強法解説の新書には、ドラッガーが文章化しながら知識をより強固なものへと変えて行った様が書かれていた。勉強方法としてはこのように書き続けることが重要であって、自分もそうなのだが、文章化することで自分の考えに形を与えられることが出来るのである。

ドラッガーの時代と変わったところがあるとすれば、現代は文章がデータ化され、電子化され、自由自在に繋がり始めつつあるという事か…(この話は長くなるし本題ともそれるので止めておく)。それでも自分の書いた文章は、自分の意思・思索の延長であり、付形化物であり、結晶なのだから、これこそを続けなくてはいけないと考えている。

年が変わってしまう前にいくつか自分なりに練ってみた書き込みをアップしておこうと思っていた。今年の年末年始は帰省せずに文章作成の時間にしようと思っていたのである。年末は体調を崩してしまった(軽い盲腸炎だという)ので思うように作業が進まなかったのは残念だが、この記事アップはNHK-FMの年末のジャズ特集を聴きながら、時にはこんな年末も良いものだなとも思いながら、行った。

だいぶ時間が空いてしまった

だいぶ時間が空いてしまった。この間何をしていたのかというと、福岡に帰省をしていたこと、その後個人的な問題が発生しその対応に時間と意識をとられていたこと(しかも未だに解決していない)、学校のテストがあり、一応勉強を中心にしていたこと等のために、日記書きもブログアップも滞っていた。改めて気を取り直して再スタートしようという気持ちでいる。一歩でも前に出ないと進まないのだから。

私について、このブログで書こうとしているコトについて

yhuaと申します。アカウントは数字を混ぜないと取れなかった関係上yhua0917となっていますが、yhuaとさせてください。僕は香り、匂いを追いかけて、この2010年の春から調香の勉強を始めました。このブログを開設した事由は、自分の考えたことを外に向けて発信することが、今の自分にとって必要だったからです。

今までは僕は「化学」の世界に居ました。「化学」は「科学」です。学ぶのに時間は掛かりますし、なかなか理解できない概念が現れたり、実験をしても「証明」までに到達できない理論があったりしますが、その根底は理路整然とした「科学」です。しかし調香は「感覚」です。自分の作った香りが人に好かれたり好かれなかったり、面白がらせたり気持ち悪がらせたり…。調香が芸術に属するものだといわれる由縁です。

そこまでは概論的に分かりました。でもその仕組みについて少しでも理論があって欲しい、どうなっているのか知りたい。そう思ってしまうのが僕の性質のようです。だから調べるし、調べたものはどんどんリンクしてゆきたい。やがてその知識の断片、着想、感じたこと等などは繋がり始め、クラスターとして自分の眼前に広がってくれるのではないかと考えています。

そう、知識の断片、着想、感じたことがまずは重要、それらを集めること掬い上げることをはじめないと何も得られない。しかしバルクの知識はすぐには役に立ちません。まず一つ一つの断片を発信するという「練り上げ」の過程を経てきちんとした塊にします。そしてそれぞれを再結合したりしながら、追い求めている香りの世界に到達してゆきたいと考えています。

いずれにしてもブログを設置する場所は見つけたので、はじめようと思います。このブログスペースはアニメーション作家のamicaさんや、香料や香りのインスタレーションやワークショップを積極的に展開している「魔女の実験室」のmakiさんのブログが置いてあります。尤も無料で展開できるというところが一番の決め手だったのですけれども。