シンセサイザー音楽とフレグランス香気との、抽象的な感覚刺激の調和感の探索のための、ワークショップ案

件の作曲をやっていた人が、音楽と香りの調和に関して考えたいと言っていた。香りのパーセプションの研究に関して書いてみる。

‎作曲や、dtmで、使う音の要素の中には、一瞬の感覚への作用がある。香りも同じであり、一瞬嗅ぐ香りには一瞬の感覚への作用がある。これらは質感や色合い、味覚などとも共有されるような感覚となっている。具体的には芳醇な音や芳醇な香りが有るであろうし、それは甘さなどにもつながっている気がする、場合によってはじゃりっとした音や、ベルベットのような肌触りが感じられたり、しっとりとした感覚や、ドライでしゃりっとした感覚のものだったりする。色が感じられる事もある。深い赤もしくは鋭く光る青や紫のスペクトルが感じられることもあるであろう。

人間の受け取るモノからの感覚は、他の人へその印象を伝えるために、言語化される。だが常に正確な言語化がされるとは限らないし、言語化できるとも限らない。感じたモノを言語化する‎ためのトレーニングは必要であるし、知覚したものを正確に対象を同定するための経験も重要である。だがトレーニングや経験があれば描術が正確さを増して行くのかというと、そうとは限らない。なぜならトレーニングならともかく、経験は背景とともに記憶される。つまり感じとった対象を正確に記述しようとすると、どうしてもそれまでにそれを感じた文法の中にそれを還元させてしまおうとするのである。

例えばレモンの花の香りやオレンジフラワーアブソリュートはどんな色だろうか?黄色とかオレンジという答えが返ってきそうだが、香りだけを純粋にかごうとすると、ファットでタイト、小さい花からは想像もできないボリュームのある、存在感の強いマットホワイトが近いような気がする。

一時前にテレビを賑わせていたipadのCMで、サンプリング‎音源をつなぎ合わせて即興の演奏するグループ(“Yaoband”)を取り上げたCMがあった。これは音一つ一つに対しては言語的なラべリングは存在していない。他方ではDJのアーティストが時々とる手法なのだが、とても古い音源を曲のイントロ部分にもってきたり、インターミッションに使ったりしている。大概は古い録音で、パチパチというノイズが多量に入ったジャズだったりするのだが、その使用方法は、古いジャズという明確な言語的なラべリングが乗ったままである。

というように、音や香り、しばしば色/光は直接何らかの印象を人に与える。しかし必ずしも感覚的に受け取るモノと、そこにつく言語的な意味合い、ラべリングの部分は一致しているわけではない。‎これまでの経験に基づく文脈が言語化には付随いているのである。さらには、言語化されない体験が、一般的に受け入れられている言語化を為そうとする精神活動を阻害してしまうこともある。

例えばバラの香りは多くの人に愛されるが、バラの香りをつけていた母親が厳しすぎる人であったがために、子供がその香りで緊張感を感じるようになってしまったりする。また私事だが、会社員時代、厳しい仕事内容と馴染めない同僚の中で、帰宅したあと、エディヒギンスのジャズばかりを聞いていた時代があった。彼のジャズはなかなか良い音楽の世界を体現しているとは思うが‎、それらのアルバムのイントロを聴いたり、もしくは当時直接聞いた経験のない彼の演奏であっても、聞くと気分が下がってくる。そのように、香りにも音にも体験‎が大きく反映していて、文脈、それは多くは人々に共有されている物語なのだが、しばしば個人史を反映した独自の物語に基づく意味付けやラべリングがなされてしまうのである。言語化する限り、言語化できる範囲を超えることはできないし、言語化自体が独り歩きをしてしまう‎。

言語化せずにその感覚の対象となるモノのパーセプションを解釈できないかと考えるのである。そこでとても役に立つであろうものは、香りと音の調和感の解析であるのではないかと今考えている。一瞬の香りは印象を与えてくれる。一瞬のシンセサーザーの音もまた、何らかの印象を与えてくれる、それはリズムであったり、和音であったり、倍音の組成であったりする。そこから印象が感じられる、寂しかったり、暖かかったり、金属的であったり、有機的であったりする、赤や青や黄色、マットな質感やベルベットのようななめらかな感触であったり透明感であったりもする。一瞬の香りと合致するような一瞬の音をリンクさせることができれば、香りの解釈を音の解釈でもってなすことができる。香りの情報化というものは進んできて入るものの、実際人が感じられるようには解釈できているとはいえない。だがそれにマッチするような音、そのリズムであったり、和音であったり、スペクトル情報だったりというものは明確に数値化でき、それをもとに香りのパーセプションを数字にできそうだと思うのである。何らかの香りを嗅ぎ、それにマッチするような音をシンセサイザーで作成する‎。そんな試みがあってもよいと思うのである。

先ほどラべリング、という話を述べた。このようなラべリングができないモノに対しても人間というものは共感覚的なアプローチで、その感覚をキャラクタリゼーションしようとする。音と香りのシンクロナイズを解釈する事は、感覚のキャラクタリゼーション‎の解析に言語的解析の次に役に立つと思われる。感覚上の描述子がいくつかあるとする。その中には不思議なという言葉があるのだが、それは、それが何に該当するのか言語的な猫述が固定していないことをも表わしていると思う。言語的な描術が正確に固定していないこと、それは未経験なものであり、抽象的な何かではあるのだろうけれども、具体的にそれは何なのか、自分の中で決定出来ていないもの。不思議な、とか抽象的な、とかの言葉はそのような対象をどうしても言語化しないといけない時に便利な単語であるように思う。

抽象的な感覚刺激は、その時には未経験であって、不思議なものなのだが、それに触れるに従って、文脈が構築されて、対象を具体的に言語化することが‎可能になる。すると抽象的が具体的になり、それに似ている感覚は、現実的で写術的なイミテーションへと変化する。

この挙動、香りではフレグランスのそれとものすごく似ていると思う。流行したばかりの新しいアコードは、未経験であって、不思議なものなのだが、だんだん社会的に認知され、ファッションの中での文脈が形成され、社会の中で、付けている人のパーソナリティと理解とのシンクロナイズが進むと、‎現実的な香りになり、パーソナルイメージという具体的なラべリングが可能になるのである(もちろんフレーバーは殆どの場合、具体的な実際の香りの模写であるから(フレーバーというと、主に食品の香りである)、大人社会において、フレグランスのような、未体験の不思議な、流動的な意味づけを持つモノから意味形成がスタートするという事はない)。

フレグランスの香りに関してワークショップを開き、その場で香りに対応するシンセサイザー音源をクリエーションする。この過程は言語による解釈を経ないノンバーバルな翻訳である。その後、生成された音源に対して、作曲、聴覚の心理学などからパラメータ化をし、多次元データ解析や機械学習を行えば、かなり面白い結果がえられるのではないかと思う。もちろん、香りを勉強していたことがある人、クリエーターに協力してもらう事が必要である。香りに対して印象を捉えるのが苦手な人、未経験の人だと、‎きちんと明確な自分の解釈に基づく音のクリエーションは不可能であるし、嗅覚疲労を引き起こしてしまうことも多い。そして特に重要なことは、その一刻に限定して香りからクリエーションを作ることである。でなくてはトップノートとミドル、ラストノートで香りの印象が変わってゆくのに、一つのイメージだけを作れるはずがない。

この手法は言語化できないはずのものから対象の意味や位置づけることができる可能性がある。言語を通じて対象を理解しようとする行為と並行して、人間はノンバーバルな意味解釈の経路をもっているはずだ‎。類人猿は生きるための情報をその他の哺乳類に比べ視覚情報から得る、そのために嗅覚受容体のライブラリは、ほかの哺乳類に比べ少なくなるように進化したといわれる。社会生活を行うヒトはさらに拍車がかかり、匂いから得る情報はさらにシャットアウトして生活を送っているとされる、匂いの情報は情動的な部分に直結している(た)からである。このことから言語的な匂い処理の脳機能をトレーニングしないままの人は相当な数になると思われる。それでも匂いは活き活きとした生活には欠かせないし、フレグランスは視覚の芸術の権化であるファッションの、最後に加えられるエッセンスである。匂い、そして香りの役割を科学的に解明する事は、感覚の世界を解明し、ひいては美を理解させる。最初の段階に於いては、生物における香りのコミュニケーション、その次の段階としてヒトにおける普遍的な美の解釈、そして最終的には人間社会の香りのコミュニケーションの理解を促進させると思われる。最終段階においては、アートの世界を可視化し、クリエーションの洗練度をさらに増進させることにつながる事もあり得ると考えている。

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