時々思い出すこと。

(2013 7月 8, 月曜日)この研究室の四年生の学生さんに韓国土産のお裾分けなんかをしたり、後輩と一緒に女の人生を球技のボールに例えると、とかを見ていると(←これは面白かった、言い得ている)、結構楽しいものである。またラインのスタンプで遊んでいたりすると、それはそれで面白いものである。

しかし暫くして我に帰ったとき、今はもう会う事のない人たちのこととかを思い出す。自分は人間づきあいは多少は上手にあしらえるようになりはした。しかし昔そばにいた人間は去った人もいるし、まだ自分の近くにいて会おうと思えば会える人もいる。しかしどんな人間からも、可能性を秘めた時間は無情に過ぎて行く。無限の時間があれば良いのにね。

自分は、もはやその人間の時間を無駄に過ごさせたくないから、と連絡を取らない人間がいる。その人たちに、どうだ、と見せられる結果が出ているのだろうか?それは仕事の公も人生設計の個もである。男の人生は女よりも自由に生きようと思えば生きられる、死のうと思えば死ぬこともできる。仕事に命を捧げることもしやすい(幸福に死ねるかのリスクは人生のルートをどう取るかに懸かってはいるのだが)。

さて本題。今連絡を取らない/とれない人のためにこそ、公私の両次元をきちんとしよう。すべての他人、商売相手、仲間、友人、身内に正々堂々としていられる公私であろう。

女の一生は球技のボールに例えることができる。 by コピペ馬鹿 ~創造力の欠如~
aromaphilia: 私について、このブログで書こうとしているコトについて
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