芸術作品、感覚の制約と芸術としての完成度②

(続き。前回サラウンドとfidelity、芸術作品への感覚の制約と芸術としての完成度、への考察に引き続いて。)

自分の研究とも関係しているのだが、香りの情報化技術と香りの再生装置を使用して、バーチャルリアリティ演出に匂い演出を実用化できないかという研究がある。今まで見てきた考察を踏まえると、香りの世界でもリアリティへのfidelityが高まりすぎると、芸術作品への受容傾向が生理的にシャットアウトされてしまいかねない状況が考えられる。

例えば臭すぎる香り、普段生花店で嗅いでいるような、リアルでフレッシュな花の香り、煙の香り、それらのものが漂ってきたら、それを現実のものだと感じてし まうであろう。それは観客がそれを作品として、ある種の創作物であり、架空のものであり、現実の自分とは異なる世界を覗き見しているのだという感覚をもっ て、それを味わうという姿勢を壊してしまうに違いないと思われる。

先ほど総合的な完成度を持って音楽あるいはサラウンド体験ができる古典的な場として劇場を挙げたが、純粋芸術としての枠をはずせば教会やモスクのような宗教施設もそのような場となりうるように思う。こちらも建造物である。宗教体験は非日常的な体験であるが、体験が架空の世界の上で起こっているものである、という前提があっては、宗教体験とは言えないであろう。同様な事がゲーム作品にも言えそうである。ゲーム作品では、プレイヤーは制作者の世界に没入感をもってアクティヴに製作物を鑑賞する。低fidelityな環境、没入感を得られないデバイスは、ゲーム作品をプレイヤーに提示するには役者不足であろう。

バーチャルリアリティを作り出すこと即新しい芸術のステージを作り出すこととは言えなさそうである。

作品、特に芸術作品は架空の世界の上に立脚したものである、という前提がなくては、人間は安心してその世界に入っていくことは出来ないのであろうと思われる。そのために は、そのとき感じている感覚が創作物に由来するものであって、現実の世界とは異なるものなんだという安心感が必要であろう。

そのためには音楽や観劇の世界では、低fidelityな再生環境や舞台装置のような、架空の物語の世界から現実へと引き戻すことが可能な作品フォーマット が必要だったと思われる。同時に作品のフォーマットが歴史的に脈々と受け継がれるものであるからこそ、人はそのフォーマットに慣れ、経験を積み慣れているから 容易に、架空の世界に任意に入り込む事ができると同時に作品を鑑賞し終わる・作品を拒絶しようとする場合には、その世界をシャットダウンして現実の世界に容易に戻ってこれる。

オーディオの世界でもあまりにもfidelityの高い機材では音楽鑑賞の感覚が合わないことがある。ある程度劣化する再生環境が必要なのである。この劣化の起こし方に様々な嗜好があり、オーディオが聴いてみるまで好みが分からな い理由があるようだ。またその歪み方自体に芸術性が宿るようにも思う。

先ほど述べたように、香りをバーチャルリアリティとして再現しようとすると、バーチャルリアリティの精度が上がりすぎる可能性もある。もちろんそのような技術が必要になる場面がやってくるが、それはアート作品の技術土台として構築される訳ではないと予想される。バーチャルリアリティの精度が上がると、没入感は更に増すと思われる。ただしそれに相関して芸術のフォーマットとしての完成度が向上するわけではないように思われるのである。

ステレオ録音作品は低fidelityであった。それと同じように、このような作品のフォーマットが香りのアートにも必要であろうと思われる。作品として洗練することが可能なレベルであり、なおかつ高fidelity過ぎない香りの演出のフォーマットをどのように作ればよいのか?

現在のところ、結論めいたモノは出てはいないが、ひとつのキーワードはフレグランスなのではないかと考えられる。フレグランスは人工の造形物であることが確立しており、嗅いでみるだけでそれが人造物であることがわかる。フレーバーは現実の世界をどれ程忠実に再現できるかという観点が常に付きまとっている。フ レーバーもしくはリアルな香りを用いて演出をするのではなく、フレグランス史にしたがったフレグランスをシーンに配することにより、演出をしてはどうだろ うかと考えている。先程も述べたようにリアリィティに対するfidelityが低いフォーマットの方が安心感をもって創作物と受け入れられるのではないかと考えている。

(その意味では香りの要素系への分解は必ずしも必要ではないのかもしれない、設定する香りのコンポーネントとはパレットの上に並べる絵の具のようなものになるのかもしれない。この辺はまだ未考察だが)

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