魔女の宅急便、という「おとぎ話(=昔話)」

せっかくなので、書いておこう。(ちょっと唐突すぎる始まりだしですが)

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「エネルギーの失われた状態であることがわかったのなら、小休止を摂って、回復を待てばよい」と人は言う。「魔女の宅急便」でも、「描けなかったらどうするの?」という主人公の質問に対して、絵描きが「ジタバタする。がむしゃらに描いてみる。でも、ジタバタしてもどうにもならなかったら描くのを辞める。本を読んだり、景色を見たり、何もしない。でもある時急に描きたくなる…」と答えている。

映画「魔女の宅急便」において、重要なテーマは
• なぜ主人公のキキの魔法が使えなくなったのか
• なぜ主人公のキキの魔法が使えるようになったのか
の2点になると思う。

そもそも主人公キキの魔法が使えなくなったのは、トンボと飛行船を見に行った後、トンボの友人たちと会った時にキキ自身が嫌な気持ちになって以降である。一人で歩いてパン屋の屋根裏部屋に帰ってきたとき、キキは街の女の子のこともトンボのことも自分のことも嫌になっている。その後、ジジの言葉が分からなくなり、飛べない状態になってしまっている。魔法がものすごく弱くなっているのである。

魔法が復活するのは飛行船が暴風で流され、トンボを助ける必要に迫られたときである。トンボを助けようとしたとき、その力が復活し、トンボを助けた後のテレビ局のインタビューの最中に入ってきたジジの言葉はキキには分かったようである(映画中では、ネコ語なので我々には分からないのだが)。

この問いに対する答えが作中、絵描きの子(ウルスラ)の言葉の中にあるように思う。キキが、魔女がどうやって飛ぶのかについて「血で飛ぶ」と答えた後、ウルスラは「魔女の血、絵描きの血…神様か誰かがくれた物なんだよね。…おかげで苦労もするけど」と言っている。エンディングテーマの中でも松任谷由美「優しさに包まれたなら」中、「小さい頃は神様が居て、不思議に夢をかなえてくれた、優しい気持ちで目覚めた朝は、おとなになっても奇跡はおこるよ」とある。

つまり、神様がくれた力を使うためには、素直で、優しい気持ちだけに心が満たされていないといけないのではないか、と考えられるのである。キキが街にやって来たときには、小さい頃からいた神様が引き出してくれていた血の力が、素直な子供の心によって出現していたが、心が曇ってしまったために血の力が弱まってしまう。しかし、再び純粋な気持ちを取り戻したとき、血の力が復活し、トンボを救うことが出来た…。

この作品を見ていると、ブルーノ・ベッテルハイムの「昔話の魔力」中にある「おとぎ話(=昔話)」と構造が似ていることが分かる。「昔話の魔力」で、ブルーノ・ベッテルハイムはおとぎ話を心理学的に分析している。幼少時、心を補完する為にある特定のおとぎ話に依存する…。おとぎ話の中で成長する主人公に子供は感情移入をし、その成長を追体験することで「おとぎ話」の中で語られる「成長」を疑似体験するのである。観客は主人公のキキと一緒に物語の中を生きることで、成長したり、純粋な気持ちを取り戻したり、浄化されたりする。この作品はファンも多いが、そのような「おとぎ話」的力があるからかもしれない。

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この話は福岡に帰ったときに、弟夫婦がネットを見たり漫画を読んだりしながら話していたテーマである。丁度、テレビで映画が放送された2~3日後に福岡入りしたから、その話題だったのだろう。実は原作があって、その話の中ではキキがトンボと結婚するところまでが描かれるのだ、という話も聞いたり(自分にとっては初耳)。でも、自分はさまざまな本を読み齧った話をつないで、魔女の宅急便のテーマはこのような内容なのだろうと考えた。

魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品) - Wikipedia
ネタばれ注意! 魔女の宅急便 - あの映画のココがわからない
ブルーノ・ベッテルハイム - Wikipedia
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