conversation with myself “自己との対話”

(今回は個人的なことを書く) ビル・エヴァンスのうつむき加減にピアノに向かっている写真が好きだ。このアルバムの写真は遠めに視線を遣るビル・エヴァンスの写真で、うつむいては居ないが、独りだ。しかし独りで映ってはいるもののほんのりと夕暮れ色のような光の中に居るかのようにも見え、音楽の求道者が静かな探求の末にたどり着いた凪、もしくは暖かい夕暮れ色の化身のような永遠、を思わせるこの録音の浄福感に満たされているかのようにも感じられる。

アルバムの内容も独りで多重録音に挑戦したものになっている。解説文に拠ると3度の演奏を多重編集しているという。録音技術の未熟なこの時代にあって相当先進的なチャレンジだったといえる。大概別の楽器を用いて、あるいはシンセサイザーなど同じ鍵盤を通しつつも別の音色で演奏できる電子楽器を使うのが一般的な多重録音なのではないだろうか?しかし同じピアノで多重録音をしているこのアルバムはかなりの異端であろう。

時々、このアルバムを聴きたくなる。いつも聴くと音楽のオーラが薄まってしまうので、聴くときは念入りにタイミングを選んで、なるべくヘッドホンでは聴かず、オーディオを念入りにチューニングして大きめの音で聴くようにしている。いつだったかの日記に書いたように、この音を聴くとフランスのアヌシーの大学生寮での遅い夕暮れを思い出す。からりとした空気、何所までも青い空が段々と薄墨色に沈んでゆく、真っ白だった雲は夕暮れのオレンジを反射していたりする。もう一度あの空気をゆっくり味わいたいと、ふと思ってしまっている。何に対しても焦りは感じていなかった。大学を留年したから成績を向上させようという意欲もそこまで強くなく、業績を上げようという見栄もなく、自分や他人の損得を計算したりすることもなく、自分の仕事と信じて何かと何かを網羅したり・組織化したり・再解釈したりする見通しもなく、しかしフランス語を学んで目の前の人と意思を通じ合わせて、日々感じたことを文章化して・結晶化して行こうと、唯していた。そんな感覚。忘れてしまった感覚。仕事に没頭してみても、お酒を飲んで酔っぱらって心がなんとなく自由になったからといって戻ってくる感覚でもなく、戻るべき場所でもない。多分、憧憬であって、ノスタルジーであって、黄金色の浄土なのだろうと、今は思う。

辻邦生の短編「ある晩年」に登場するファンスターデンの境地かもしれない。かつてはその香りに満たされ、その光に満たされていたが、その扉は閉められ、厳重に鍵をかけられている、その香り、その光に心奪われないよう自分の世界を理解し、秩序付け、コントロールして行く。しかし全てが完成し、完結し、そして崩れ去ったとき、再び開いた扉からその香り、その光が我々を包むのかもしれない。

自分にとってこのアルバムはその香り、その光の片鱗を感じさせるものなのである。仮に一時であっても。

Amazon.co.jp: Conversations With Myself: Bill Evans: 音楽
ビル・エヴァンス - Wikipedia
Amazon.co.jp: 見知らぬ町にて (新潮文庫): 辻 邦生: 本 (たぶんこれに収録されている)
「ある晩年」: 辻邦生 への旅

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