ブログのエンジンを変更しました。

一応生きています。

「Aromaphilia」のトップページへのアクセスは同じなのですが、ブログのエンジンを変更しました。また直接アクセスしていた方には申し訳ありませんが、エンジン変更のために内部アドレスが変更されています。だいぶ長いこと更新していない当ブログですが、当面のアーカイブとしてしばらく保持しようかな、と思っています。

旧bloggerサイトにもアクセスは可能です(こちらのほうは落ち着いたときに整理するかもしれません)

http://ideacluster.blogspot.jp/

ブログのアドレスを変更しました。

一応生きています。

ちょっと気づきにくい変更内容ですが、ブログのアドレスを変更しました。ですが、これまでのアドレスでアクセスしても新規取得したアドレスにリダイレクトされるようです。

だいぶ何も記事を上げない状態が続いていましたが、きちんと自分の考えていることを繋げてゆけるように、時々は考えていることを書いてまとめて、ブログ化してゆこうと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

(参考)
Bloggerに独自ドメインを設定する方法 : たき備忘録
Googleの無料ブログ『Blogger』で独自ドメイン『ムームードメイン取得』を設定する方法 | 無料ブログの達人

シンセサイザー音楽とフレグランス香気との、抽象的な感覚刺激の調和感の探索のための、ワークショップ案

件の作曲をやっていた人が、音楽と香りの調和に関して考えたいと言っていた。香りのパーセプションの研究に関して書いてみる。

‎作曲や、dtmで、使う音の要素の中には、一瞬の感覚への作用がある。香りも同じであり、一瞬嗅ぐ香りには一瞬の感覚への作用がある。これらは質感や色合い、味覚などとも共有されるような感覚となっている。具体的には芳醇な音や芳醇な香りが有るであろうし、それは甘さなどにもつながっている気がする、場合によってはじゃりっとした音や、ベルベットのような肌触りが感じられたり、しっとりとした感覚や、ドライでしゃりっとした感覚のものだったりする。色が感じられる事もある。深い赤もしくは鋭く光る青や紫のスペクトルが感じられることもあるであろう。

人間の受け取るモノからの感覚は、他の人へその印象を伝えるために、言語化される。だが常に正確な言語化がされるとは限らないし、言語化できるとも限らない。感じたモノを言語化する‎ためのトレーニングは必要であるし、知覚したものを正確に対象を同定するための経験も重要である。だがトレーニングや経験があれば描術が正確さを増して行くのかというと、そうとは限らない。なぜならトレーニングならともかく、経験は背景とともに記憶される。つまり感じとった対象を正確に記述しようとすると、どうしてもそれまでにそれを感じた文法の中にそれを還元させてしまおうとするのである。

例えばレモンの花の香りやオレンジフラワーアブソリュートはどんな色だろうか?黄色とかオレンジという答えが返ってきそうだが、香りだけを純粋にかごうとすると、ファットでタイト、小さい花からは想像もできないボリュームのある、存在感の強いマットホワイトが近いような気がする。

一時前にテレビを賑わせていたipadのCMで、サンプリング‎音源をつなぎ合わせて即興の演奏するグループ(“Yaoband”)を取り上げたCMがあった。これは音一つ一つに対しては言語的なラべリングは存在していない。他方ではDJのアーティストが時々とる手法なのだが、とても古い音源を曲のイントロ部分にもってきたり、インターミッションに使ったりしている。大概は古い録音で、パチパチというノイズが多量に入ったジャズだったりするのだが、その使用方法は、古いジャズという明確な言語的なラべリングが乗ったままである。

というように、音や香り、しばしば色/光は直接何らかの印象を人に与える。しかし必ずしも感覚的に受け取るモノと、そこにつく言語的な意味合い、ラべリングの部分は一致しているわけではない。‎これまでの経験に基づく文脈が言語化には付随いているのである。さらには、言語化されない体験が、一般的に受け入れられている言語化を為そうとする精神活動を阻害してしまうこともある。

例えばバラの香りは多くの人に愛されるが、バラの香りをつけていた母親が厳しすぎる人であったがために、子供がその香りで緊張感を感じるようになってしまったりする。また私事だが、会社員時代、厳しい仕事内容と馴染めない同僚の中で、帰宅したあと、エディヒギンスのジャズばかりを聞いていた時代があった。彼のジャズはなかなか良い音楽の世界を体現しているとは思うが‎、それらのアルバムのイントロを聴いたり、もしくは当時直接聞いた経験のない彼の演奏であっても、聞くと気分が下がってくる。そのように、香りにも音にも体験‎が大きく反映していて、文脈、それは多くは人々に共有されている物語なのだが、しばしば個人史を反映した独自の物語に基づく意味付けやラべリングがなされてしまうのである。言語化する限り、言語化できる範囲を超えることはできないし、言語化自体が独り歩きをしてしまう‎。

言語化せずにその感覚の対象となるモノのパーセプションを解釈できないかと考えるのである。そこでとても役に立つであろうものは、香りと音の調和感の解析であるのではないかと今考えている。一瞬の香りは印象を与えてくれる。一瞬のシンセサーザーの音もまた、何らかの印象を与えてくれる、それはリズムであったり、和音であったり、倍音の組成であったりする。そこから印象が感じられる、寂しかったり、暖かかったり、金属的であったり、有機的であったりする、赤や青や黄色、マットな質感やベルベットのようななめらかな感触であったり透明感であったりもする。一瞬の香りと合致するような一瞬の音をリンクさせることができれば、香りの解釈を音の解釈でもってなすことができる。香りの情報化というものは進んできて入るものの、実際人が感じられるようには解釈できているとはいえない。だがそれにマッチするような音、そのリズムであったり、和音であったり、スペクトル情報だったりというものは明確に数値化でき、それをもとに香りのパーセプションを数字にできそうだと思うのである。何らかの香りを嗅ぎ、それにマッチするような音をシンセサイザーで作成する‎。そんな試みがあってもよいと思うのである。

先ほどラべリング、という話を述べた。このようなラべリングができないモノに対しても人間というものは共感覚的なアプローチで、その感覚をキャラクタリゼーションしようとする。音と香りのシンクロナイズを解釈する事は、感覚のキャラクタリゼーション‎の解析に言語的解析の次に役に立つと思われる。感覚上の描述子がいくつかあるとする。その中には不思議なという言葉があるのだが、それは、それが何に該当するのか言語的な猫述が固定していないことをも表わしていると思う。言語的な描術が正確に固定していないこと、それは未経験なものであり、抽象的な何かではあるのだろうけれども、具体的にそれは何なのか、自分の中で決定出来ていないもの。不思議な、とか抽象的な、とかの言葉はそのような対象をどうしても言語化しないといけない時に便利な単語であるように思う。

抽象的な感覚刺激は、その時には未経験であって、不思議なものなのだが、それに触れるに従って、文脈が構築されて、対象を具体的に言語化することが‎可能になる。すると抽象的が具体的になり、それに似ている感覚は、現実的で写術的なイミテーションへと変化する。

この挙動、香りではフレグランスのそれとものすごく似ていると思う。流行したばかりの新しいアコードは、未経験であって、不思議なものなのだが、だんだん社会的に認知され、ファッションの中での文脈が形成され、社会の中で、付けている人のパーソナリティと理解とのシンクロナイズが進むと、‎現実的な香りになり、パーソナルイメージという具体的なラべリングが可能になるのである(もちろんフレーバーは殆どの場合、具体的な実際の香りの模写であるから(フレーバーというと、主に食品の香りである)、大人社会において、フレグランスのような、未体験の不思議な、流動的な意味づけを持つモノから意味形成がスタートするという事はない)。

フレグランスの香りに関してワークショップを開き、その場で香りに対応するシンセサイザー音源をクリエーションする。この過程は言語による解釈を経ないノンバーバルな翻訳である。その後、生成された音源に対して、作曲、聴覚の心理学などからパラメータ化をし、多次元データ解析や機械学習を行えば、かなり面白い結果がえられるのではないかと思う。もちろん、香りを勉強していたことがある人、クリエーターに協力してもらう事が必要である。香りに対して印象を捉えるのが苦手な人、未経験の人だと、‎きちんと明確な自分の解釈に基づく音のクリエーションは不可能であるし、嗅覚疲労を引き起こしてしまうことも多い。そして特に重要なことは、その一刻に限定して香りからクリエーションを作ることである。でなくてはトップノートとミドル、ラストノートで香りの印象が変わってゆくのに、一つのイメージだけを作れるはずがない。

この手法は言語化できないはずのものから対象の意味や位置づけることができる可能性がある。言語を通じて対象を理解しようとする行為と並行して、人間はノンバーバルな意味解釈の経路をもっているはずだ‎。類人猿は生きるための情報をその他の哺乳類に比べ視覚情報から得る、そのために嗅覚受容体のライブラリは、ほかの哺乳類に比べ少なくなるように進化したといわれる。社会生活を行うヒトはさらに拍車がかかり、匂いから得る情報はさらにシャットアウトして生活を送っているとされる、匂いの情報は情動的な部分に直結している(た)からである。このことから言語的な匂い処理の脳機能をトレーニングしないままの人は相当な数になると思われる。それでも匂いは活き活きとした生活には欠かせないし、フレグランスは視覚の芸術の権化であるファッションの、最後に加えられるエッセンスである。匂い、そして香りの役割を科学的に解明する事は、感覚の世界を解明し、ひいては美を理解させる。最初の段階に於いては、生物における香りのコミュニケーション、その次の段階としてヒトにおける普遍的な美の解釈、そして最終的には人間社会の香りのコミュニケーションの理解を促進させると思われる。最終段階においては、アートの世界を可視化し、クリエーションの洗練度をさらに増進させることにつながる事もあり得ると考えている。

(3/16メモ)香りについて考えたメモ 。

(3/16メモ)香りについて考えたメモ 。なんだか書き溜めたものをひっくり返して眺めていたら、割と面白そうなことも書いていたりする。以下。

なんだか研究が進んでいるのかいないのかわからない状態だ。

常に研究なんて進展し続けるものではないから、ある程度焦りを感じない様にした方が良いのかもしれぬ。

昨日、香水の発表会を聞きに行くのに誘ってもらって‎ちょっと昔の感覚を思い出した。結論から言うと、調香の業界は何ら変わってはいない。調香というか香料 の業界というべきか。世襲制であって、排他的であって、自分らの仕事を神秘化する。もちろん香料業界の真髄は調香である。そしてそれらは、未だに数値化さ れたもので行われているのではなく、多くの部分が不明瞭なまま、香料を握っている一部の人間だけが独占して行っている。自分の研究は黒船だと思う。そんな 右も左もわからんままに行っている調香を科学で筋道を通そうというのだから。

完全に科学が解明されて、技術で実装されれば、その仕事が何を行おうとしているのか、すべてが明らかになって、ただの職人集団へと還元されるであろう。どん なふうに絵を描いたら良いのか、謎に満ちた仕事であったであろう。だがこれらはコピー機が発明され写真が発明され、テレビが発明され、神秘的な仕事ではな くなった。音楽を奏でることもまた神秘的な仕事であったはずだ。だがこれも、レコードが開発され、ラジオが放送され、今やデジタルデータとしてストリーミ ング再生出来るに至って、そこまで神秘的な世界ではなくなった。かつての画家や音楽かという神秘的な世界を職人的な技能の世界へと還元したように調香の神秘 的な世界を職人的な技能の世界へと還元してやろう。そう思ったことを昨日改めて思い出した。

副次的に人間の統制のツールとしての性格がでてくるかもしれない。かつてのラジオがそうだったように。その意味では化学受容感覚と遺伝子情報ライブラリとが 統合され解析されるその世界で、そのおそれを抱いたほうが良いやもしれぬ。いずれにしてもその展開は黒船と同じなのだと思っている。自分はそれにのれるの か?全力を出さなくてはいけないのであろうが。‎自分が黒船に乗っているのか、それともそれを見ているに過ぎないのか?まだ動き出したばかりなのだから、 十分に間に合うはずだと思う。と同時に周囲をきちんと俯瞰しておいて、いつでも自分の角に合致したポジション、でなおかつ自由度を持つポジションに移行で きるようにしておかなくてはいけない。

人生におけるモビリティの確保とミニマリズム

Rimowaの中古のアクテンコファー, 928.14
Rimowaの中古のアクテンコファーを今日から使用してみる。荷物を詰めない状態ではゼロハリバートンの通常使用しているものより若干軽いくらいで、軽い事は軽い。だが、でかさは結構こたえる。そして、通常使用しているゼロハリバートンよりものが詰められるため、つい荷物を詰めすぎているようで、結構重たい。

なんでも荷物を飲み込んでくれる。肝心の荷物の量は平常時に使っているもので完結しているのだが、これに着替え等を合わせて運ぼうとすると、別のカバンや紙袋を持たなくては行けなくなってしまう。それを回避して、荷物を一つにまとめるために、このアクテンコファーは容量的には便利だ。‎通常使用しているパソコン、電子デバイスを飲み込み、着替え類とお風呂セットを飲み込み、そしてお土産として買ったクッキーの箱を飲み込んで、普通に蓋が閉まってしまった。電車内や飛行機内では床に直置きできるので、徒歩移動が少なければ問題はなさそうである。

大きさは結構なもので、足の間にはさんでも、手提げを前後逆に持っても、電車の中で足と椅子の間にはさもうとしても、結構でかい。飛行機内に持ち込めるサイズで、機内の椅子の下にはギリギリ入りそうだが、隣の人が嫌がるかもしれない。中で少々暴れること、ラッチがニカ所にあることから、アクセス性がイマイチである。‎中の荷物が確実にこぼれるので平らな所で開ける必要もある。その点はゼロハリバートンの方がアクセスがしやすい。広げた際にも場所をそれほどとるわけではないので、広げやすい。

ローラーが付いているわけではないので、おもさは全て手提げにかかってくる。普段の歩く速度を出そうと思えば出せるのだが、少し無理がある。モバイルOfficeとしての容量はきちんと確保できるのだろうが、日常的な使用は難しいかもしれない。

旅行鞄について
ただし、この鞄一つで、泊りがけの滞在がこなせてしまうので、そういう機会が頻発するのであれば内容も熟れてくるであろうから、そういう玄人な人にはおすすめである。容量としては20Lになると思う。ビジネス系であっても、スーツの替えを持たない、靴の替えを持たないときっぱり諦められれば、荷物はかなりシェイプアップできる。‎その前提で、普通に考えると1〜2泊、洗濯できる環境に飛び込むのであれば無理をして7日くらいがなんとかなりそうである。

ちなみに前回フランスへの滞在で使用した‎30Lのフレームタイプのスーツケースには、革靴、ワイシャツ二枚、ニット、薄手のウールのスラックス、下着各3枚ずつ、寝る時用のシャツとハーフパンツであった‎。お風呂用品はスイムタオルと、トラベルボディソープに絞り込んだし、香水も一点に絞った。このときは、出歩き用に普段使用しているゼロハリバートンをそのまま持っていった。スーツケースは機内持ち込みサイズであったのだが、あえて預ける事にして、ソムリエナイフやカミソリを持ち歩けるようにした。話はそれるが、スーツを着ることなく、服を仕事での有用性でしぼり込むと、実にミニマル化できる。ニットとスラックスは、紺かグレーの無地で一択であるし、シャツはホワイトベースかブルーベース(それも無地かストライプかである)。そうするとおのずからネクタイも限定され、無地かストライプか、小紋柄などに集約される。ただし自分の場合は靴は諦められなかった。旅系の人の中では、靴を持って行くかどうかは分かれるところだと思う。前前回国内旅行で、靴を持っていったとき、やはり快適さが違ったので、これは実践するべきだなと思ったのである。

その30Lから靴を取り除いて、着替え内容をネクタイ、ニット、二枚のワイシャツ、スラックスそして下着類のみにするなど、エッセンシャルにすると、ちょうど収まるであろう。お土産もクッキー箱くらいであれば入ってしまいそうだ。ミニマリストや、ノマドワーカーや、金持ちの家出におすすめである。

なお20Lくらいということで言うと、ボストンバックはそれくらいの容量である。リモワのアクテンコファーを使う必要があるかの、判断の分かれ目になるのは、パソコンを持って行くのかということになると思う。パソコンが入っていないのであればボストンバックは十分にありであろう。パソコンが入っていたり、仕事用の関係者と会う時には、ボストンバックはカジュアルすぎるし、パソコンを壊しそうで怖い。

モビリティの確保という憧れ
トランク一つで仕事をしながら飛び回るというのはちょっと憧れがある。どれだけモノを減らしつつ、快適性と生産性を保てるか、どれだけモビリティを確保できるか、と言うことを最近よく考える(特にヨーロッパへの学会前後くらいから)。会社をやめる時にもかかった病気なのだが、自分の中でミニマリスト化に今関心が高まっているのだろう。

現代人はいつの間にか構築されてしまった自分の今の暮らしを守るため、いつの間にか身を粉にして日々を過ごしている。たとえば‎車やバイクのある生活を維持するために、高級なオーディオのある生活を維持するために、毎シーズン新しい服を買い、毎日ギミックを凝らした服装を実践する生活を送るために、あるいは庭付き一戸建てをきれいに保って社会的に認知された大人として生きて行くために、身を粉にして日々を過ごさなくてはならない。だがその代償として、時間と精神的なエネルギーと未来への可能性を失っているのだとしたら?どこかに移動をしようと言うときに、自分の身の周りを畳むのがものすごく大変すぎて、それが億劫になるのだとしたら?…多分本末転倒なんだと思う。

モノを減らすと言うことは、守るべきものが減ると言う事である。トランク一つで仕事をしながら飛び回ることへの憧れは、そうした憧れの象徴である。寅さんも同じ形態であるのだが、選択的にそのスタイルを選べることが“豊かさ” だし、その選択権を確保することが、“豊かになる”ということなのだろう。

現実的に人生におけるモビリティの確保とは何なのか考えてみた
一番最初に決めるべきことは仕事であろう。何を生産できるか、何をもって貢献できるかを知ることが最も最初なのだと思う。そののちに必要なことは以下の3点だと思うのである。
・  これまでの人生から学び、何を揃えるべきなのか、一通り考えて答えを出して置くこと
・  守るべきものを選び、自分の身の回りのものを厳密に精査して選んで固めて行く事
・  自分の身の周りをシェイプアップし、モビリティを確保すること
仕事は持っていなくてはいけない。そして何も持たないこととは違う。ローコストに生きることともちょっと違う(結果として安く上がる可能性は高い)。僕の場合には、多機能なものを持つようにするというのとも違う。

スーツを着ないことにした。しかし、仕事で会う相手がスーツでも失礼のないような恰好は何なのかを考えた。大概自分はワイシャツを着、革靴を履き、Vネックのニットを着ている。ニットをメインにしたところから、毛玉取り機は必要だし、洋服ブラシも二種類使い分けている、革靴のクリームも複数種類あったり、シューキーパーも通常ローテーションを組む足数分くらいはある。混紡のシャツより綿のシャツが好きだし、そこまで高くなく買えるのならリネンが良い。ウールニットだって、‎メリノの方が良いし、財布が許すなら高割合でカシミヤの入った奴が良い。そしてサイズ感をこそ重視したいので、サイズがなかったら諦めるか、重衣料ならばオーダーが望ましいと思っていたりする。

コレクション的な買物衝動は避けようとしている。さらに消耗品ならある程度買ってもよいが、自分の趣味と異なるモノはいくら安くても買わないように心がけている。そして信頼できるものは何なのかを考えるようになった。すぐに移ろってしまうファッションのトレンドや、おかしいなと思う人が少しでもいそうな場合(機能や装飾が過剰なモノ、色使いがおかしいモノ、過剰な機能)を照らし合わせて考えて、ものを選ぶと、買うべきモノ、自分が信頼できるモノがかなり絞れる。スタンダードな物、定番的なものはなかなか値下げされないが、俯瞰して情報を集め、考えて出した答えにそうものは移ろわない、結構長期間にわたって信頼し続けられる。

終わりに
守るべきものを選ぶ、モビリティを確保する、その為には自分の身の周りをシェイプアップすることが必要で、そして自分の身の回りのものを厳密に精査して選んで固めて行く事が必要である。‎そしてこれまでの人生から学び、何を揃えるべきなのか、一通り考えて答えを出して置くことが必要なのである。

そうして集めたものは、守るのも楽だし、自分を守ってくれる。すぐにでも畳んで、次の所へ移ることができる。それが自分にとってのミニマリズムなのかなと思う。

(参考)
久しぶりに極限スレに猛者が現る | 物を持たないミニマリスト 確かにマインドマップは素晴らしい成果を与えそうだ
岡本太郎の言葉がミニマリスト精神を昂ぶらせる | 物を持たないミニマリスト
トランク一つのシンプルライフ – [シンプルライフ] – All About

自分の核であり格をつくるもの

なんだかものすごく軽量化して、どこか別の世界に出て行きたいかのような感覚に襲われる。と同時に、現在行っている研究で、クオリティカルなアイディアがでてきて、真に研究が進んでくれたら、とも思う。

土曜日だったので色々なところを回ってみた。オーラ不足であるなという感じになってしまっている。外国語の練習はそれなりに出来たのだし、Windowsphoneを買う話は一応できた。服屋でも自分の事は覚えてくれており、要するに当時のオーラはきちんとしていて、きちんとした印象は与えられているのだと思った。再安価での購入はできなかったが、WindowsPhoneになって、‎その検証もして行く。そこまで悲観するほどの落ちぶれはない?のか

研究をどのように片付けるのか、どんなウェイトバランスで仕事をこなしてゆくのか、それをきちんと考え直して、きちんと緊張感を持って仕事を進めてゆく事が必要である。他者・自分の周囲の人間を自分の仕事に引きつける事、自分に接客してくれる人からより一層考えとアイディアの詰まった仕事をしてもらえるようになること、少しでもより対等な・自分に有利な交渉条件で物事を進められること。やりとりに甘えが出てはいけないし、オーラの安定性が必要であろう。

ストレスがかかった人間しか認められないというのは、日本の社会の間違ったところだと思う。でも自分のオーラが落ちているときというものはとても注意をする必要がある。やって行く他ない。どうにか自律的に仕事をする。タイミングで取り逃しては研究も仕事もうまく行かなくなってしまう。

多分そこでも核にするべきはブログなのだろう。自分の考えたことを‎遊びであれ、仕事であれ、趣味であれ、一定の完成度まで高めて行く事。そのためにいろいろなものをセットアップしたはずなのだ。ブログの形まで持って行ければ遊びであれ、研究であれ、仕事であれ、その到達点に対して納得する事が出来る。あんのんとしたままに、自分がどこまでできたのか明確化することもなく、研究をし、仕事をし、趣味をするだけでは自分自身がした事に対して納得もしないし、満足も、それに対する自尊心も得られないであろう。そういうものがオーラとして出る。別に長生きをしたくて生きているわけではないのだから、もう少し自分を追い込んで、最後の詰めまで”仕事”を完成させ、きちんとした達成感と満足感をその”仕事”から得られるようにしようではないか。

facebookの設定を見直す(なんだかあまり”友達”増やしたくないなー)

facebookにおけるタグ付けは、個人的に嫌いだ。しかし通常の状態ではONになっているのでこの設定がダメであることに気づくのは不本意なことがあった後である。リスク管理の意味で良くないし、それはつまりこちらのツメが甘かったということでもある‎。(今回は愚痴のような投稿であり、以下は本当に愚痴の部分です)

ひょんなことから、とあるセミナーを一緒に受けている女の人とご飯を食べることになった。ちょっと彼女のそのやり方が強引で、それ自体も閉口してしまったのだが、彼女はfacebookにタグ付けをして写真をアップしてしまったのだ。

facebookにおけるタグ付けは、タグ付けされた側のタイムラインに強制的にアップロードされてしまう(そうならないような設定はできるが、‎通常の状態では、タグ付けは一方的にできて、それがタイムラインに自動的に乗ってしまう仕様である)。タイムラインの所有者がタグ付けをされた写真を消去するためには、タグ付けした本人に依頼をしないといけない仕組みになっている。つまり実名を晒しているタイムラインの所有者のすべての関係者に、この人としたしい関係にある、というメッセージングになってしまうのである。そしてタグ付けされた方は、タグ付けされるまでその可能性に気づかず、タグ付けされてしまった後では手出しできなくなってしまう。

タグ付された後からそれを修正することはできるのだが、その方法はタグ付をされた人がタグ付をした人に対して「はずしてください」とお願いをして、タグ付をした人がそれを了承するという流れを踏まなくてはいけない。

そして誤ったメッセージをその人に送りすぎたのだろう。興味が無い人がプライベートに入り込んできてしまうのを、そのうち気づくだろう、として放置していたのが良くなかった。大概の人は興味がある相手が自分自身に興味があるのかはちゃんと気にするものである、しかし必ずではない。facebookで友人関係となっている人はプライベートに入り込むことができる人であり、そこからアクセルを踏んでしまう人(プライベートに入りすぎる人)を放置しておくことは、リスク管理の意味で良くない。人が良いのは売りの一つにはなるのだろうが、それはつけいる余地が大きいということでもある。こちらもツメが甘かったということである‎。

facebookの「タグ付けされた写真」を見られたくありません。 よく、友達がタグ付… – Yahoo!知恵袋(結局これに従った。現時点でも有効)
タグ付けされている写真や投稿を自分のライムラインで非表示にしましたが、まだ他の人に見えてしまいます。 | Facebookヘルプセンター | Facebook
Facebookの写真のタグ付けの効果とタグを削除・承認制にする方法 : 安藤信作の「船橋から、小さいけれどいいものを。」

化粧品の香りの心理学系のインターン

従兄弟が化粧品メーカーの心理学研究に関して教えてくれた。心理学系の研究生をインターンとして集めて、ちょっと仕事の触りを見てもらおうとしているようである。心理系研究に関しては最大手よりは遅れているかもしれないと思う。そのメーカーは、化学系に関してはかなりの部分を自製化しようと考え、調香部門も持っていたりする。それをきちんと調べたのも3年ほど前の話であるので、最新事状に関しては、教えてもらわなくてはいけないと思うのだが。

彼らはどこまで考えているのだろうか?‎香りの情報化を進めようと考えているのだろうか?それとも物理的な資材と商品デザイン技術の充足を追い求めているのだろうか?

自分の提案できる話題としては、嗅覚受容コーディングの解明、つまり人間にとっての嗅覚情報のhardwareコーディングを解明する事で、香りを実用的に‎情報化できると考えていること。これを明らかにすることで、調香技術は、専門的なものではなく、オープンなフォーマットに還元できるはずである事。オープンなformatにできるということは、香りのデザインが容易になるであろうし、文化解析も可能になるであろう。ハードウェア的なコーディングが明らかにできれば、心理学的な香り情報処理に関する解析も進めやすくなるであろう。これらの恩恵を受けるとすれば、それは化粧品デザインにかなり有益なはずだ。

科学を軸として技術を連続的にアップロードする

このままの状況では研究を続けることができないかもしれないという恐れを感じている。

これまでに述べてきたように、アカデミックの路線の方に行きたいと度々言ってきたのだが、それが実現できなくなる最悪の状況をつい考えてしまっている。そのような状況下に、自分自身がしつつあるのかもしれない、ちょっとその状況を解決したほうが良いと思っている。

そもそも、アカデミックに行くためには、ブログなどの自助努力はしないほうが良い可能性がある。それは余計な波風を立てることが、ポジション確立のためには良い影響を与えないのではないか、と考えていた。それに研究が進むにつれ、その内容に描きにくい状況に移行しつつある、それは書く内容が専門的になりすぎてしまうことと、確立した知見のリークにつながってしまう可能性があるためである。そしてその反作用で研究以外の事が多くなってしまい、あたかも研究をしてないかのように見られてしまうのではないか、と言う恐れがあった。

もっと多くの人と会うべきなのだと思う。この前の味と匂い学会は参加を逃したが、その類の会合には出席をしなくてはいけないのだと思う。できれば週3人ぐらいの人に会えたら良いと思う。そして、常に自分の研究を人に話し、ブログにも自分の状況を更新し続けることが必要なのであろうと思っている。

そして自分の考えていること、志向性を改めて理解していただくために、ブログを再開する必要があるだろう。自分は、研究をこそ手に入れるし、研究の対象は科学なのだし、そして科学が技術を生み出す軸になるであろうし、そして商圏を確立して行くのだ、という理解を持っている。同時に自分があんのんとしてしまう事をこそ、改めて注意を払い直さなくてはいけないと思った。自分がついつい手を抜いてしまっていることは自分の落ち度だ、きちんと警戒度数を上げないといけないと思う。

常に感じている危機感でもあるのだが、自分の思い付くことのできるアイディアというものは、他の人にも思い付けるモノであると考えている。ただし自分の考えていることというものは、現状自分が最も近いところにいるとも考えている。したがって、追いつかれないためには、常に前進し続けることが必要なのである。どんな人とでも会うこと、常に自分のアイディアを書き留め、何も思いつかない日は、それを見返して、ほかのアイディアを繋げて行く事、ただしアイディアを練り上げるステージというものは、オープンでは危険すぎる。オープンな場で練り上げるアイディアは概念及び実証済みの研究結果のみであるべきである。

かねてより述べているように、自分の為そうとしていることのフォーマットは、科学である。それは嗅覚のプライマリーコーディングが生物学的に規定できるはずであることと、そのために数学的な手法を用いて解析することで達成できる事である。プライマリーコーディングを明確にしたうえで、嗅覚の学習メカニズムの解析も具体性と、数値的/定量的な検討定義ができるであろう。又その結果は、電子デバイスや香りの情報化に大きく貢献できるものと考えている。そして検討手法は創薬などへも適用が可能になると考えられる。新しい科学が達成するものは、技術群をである、技術群をもってして‎可能になるのは新しい商圏である。検討はまだまだ課題が多いのだが、現状最優先に構築して行くべきは、科学である。

遊んでいる場合ではない。自分だけで走り始めた時の考えていたことは、今でも有効であり、有価である。アイディアをひとつずつつなぎ合わせてクラスターを作る、それが香りの科学の構築にアプローチできる唯一の方法である(そうしなくては何を研究したらよいのかすらわからない)。そして今注意しなくてはいけないことはバックボーンの構築(考えるためのシステム作り)に振り回されすぎないようすることだ。金で解決するモノは金で解決してしまうこと。

(4/7メモ)科学とかについて、考えていたもやもやを投げつけてみるメモ

(4/7メモ)
おもがたさんのことを受け、研究のありようについては、きちんと考えなくてはいけないし、自分のこれまでの経歴は、主に今理研にいるような純粋培養の人達 とはかなり違っており、より広く状況を俯瞰して判断するだけの多様性が分かる経歴なのだと思う。だからこそ、この理研の状況について考えていることをまとめて報告してやる必要がある。メディアはブログで良いと思う。だいたい、自分の意見を声高に主張する事が重要なのではなく、きちんと考えを練り上げること 自体、それが自分を作るし、自分の考えを練り上げてきた実績があること自体が自分をしかるべき場所へと上がる階段を示してくれる。
おもがたさんの問題点は科学的ではなかったこと、科学を構築するのが難しい時代になりかかっている事だろうと思う。その割に時代は結果を求めている。純全たるアカデミックでも、商売でもだ。

人間としての人生を全うすることと科学を作ることはなかなか両立しないことになったのだろう。科学をつくるためには、かなりの時間が必要である。これはト レーニング期間をかなり長時間しないといけないということだ。‎高度に分化した専門分野、それぞれの専門分野をマスターして、それにプラスAlphaの成 果を残すことは大変だし、能力を身につけたうえで、時間をかけて科学的検討を積み上げてやる必要がある。これを商売に転用可能な技術の形での再構築をする にはさらなる時間と労力が必要だ。多分一生涯かけてやる仕事になる。多くの場合、それまでの同分野の先輩が残した研究資産を使って研究を作って行く。しか も人間は生きていなくてはいけないので、その間の人生を誰かがサポートしてやる必要がある。

社会はそんな科学の世界が大変なものだとは思ってはいない。手品のようにささっと花が現れるわけではないことはなかなか理解されない。商売の世界は交換の文 化である。何らかのモノ、または権利、時には知見は対価を払って交換する対象なのである。‎だから科学研究に対価を払う限り、対価に見合った科学的知見が 生み出されなくてはいけないと考えてしまう。だが科学は科学的アプローチに従ってなされる採掘作業のようなものなので、土を掘ったからといって宝物が土中 から出てくるとは限らないのだ。研究者が一応生きて行かなくてはいけない費用も必要である。

理研という組織は何なのか?学生と研究者の境目はどこにあるのか?学生は手法の習得中の身分であり、研究者は手法を身につけた‎仕事をする身分にあるという ことは言えるであろう。理研にいるのは仕事をするべき研究員なのだろうと思う。とすれば、手法として必要なものを身につけていない研究員はそこで仕事をす るべきではないのではないだろうか?科学者としての必要な手法を身につけていなければ、その仕事は不十分な状況に陥ってしまい、その仕事の結果を受け入れ て新たな仕事をしようとする人にとっては迷惑な既製事実になってしまうであろう。

(昨日まで理研について、理学研究について、イノベーションに付いて考えていた。つづき)科学者というものは科学的手法によって現実から正しい解釈を切りとろ うとする者であろう。その仕事の成果は科学的な事実だ。科学的な成果を固定化するために必要なツールは論文であり、学会コミュニティにおける discussion(学会報告)である。このプロセスを経ることで、仮説は事実へと昇華し、このような事実を積み上げることによって構築された体系(脈 絡と続く科学の歴史の中で積み上げられた理解の集合体)に自分の名前を残すということなのである。(これを第一と考えているのであれば、非科学的な実験事 実の模造がいかに危険なことかわかるであろう、もちろん論文の発表や学会報告が科学的仮説の提案の場所であり、世界に名前を残せるのかも、競争下で行われ ていることを考えるとある程度のフライングあ含まれるのは至極当然のことである。だがそれも科学的良心の範囲内で行われなくてはならない)

さて身分を再び考える。科学の成果は誰のものなのであろう?組織のものなのか?それは誤りであると思う。科学は科学者によって作られる。共同作業はあって、 グループワークによって構築される作業もあるのであろうが、本質的には個人あるいは研究チーム長に帰属するものであると思う。また研究成果は投入した時間 や投入した労力、投入した資本に見合うだけのものが帰ってくるわけではない。したがって進捗管理は実際の話、できないものと考える。

別の観点から見てみる。進捗管理はできず、研究成果は確約されたものでもなく、しかしグループの皆が食べていかないといけない。それが科学を実際にやるもの の生涯である。それはやはりリスクの高いものだと思わざるをえない。それをしてまで科学をするその対価があっても良いのではないか、そう思える。だからこ そ結果のかなりの部分を研究者に与えてしかるべきなのではないかと考えるのである‎。それがないのであれば、研究者というものは牛舎に繋がれ牛乳を生産す るだけになってしまった牛か、カゴに入れられた卵を生むだけの鶏になってしまうと思う。と同時に、誰がその成果を上げようとする巨大な組織を束ねるのだ? 大企業なら正しいのか?国家なら正しいのか?イナ、すべての組織は過ちを犯すおそれがあるし、利権や既得権が‎強大な物になればなるほど、組織の死守のために自己のも他人のも、生涯を軽んじる輩がでてくる。本当にそれが正しい科学なのだろうか?

現状の回答としては、科学者の仕事は対価的に支払われるモノ、即日手に入れられる物ではない。自分たちは投げかけしかできず、それが歴史に残るようなもの だったのかどうかは、時代の経過と他の研究者のよる精査をへなくては明らかにならない。したがって研究者としては研究に対する姿勢、科学を哲学まで昇華し て体現している事が必要である。科学者は組織人ではないべきだ。だからこそ甘えは許されないのだし、きちんと科学を、社会を、世界を俯瞰して自分の仕事を作り上げていかなくてはいけない。

(科学について考えをまとめて行くのもよいが、自分の仕事に没頭して進めてゆくことも必要である。何ら かのプレッシャーがないと動けないというのもあるが、そこまでわかっているのなら自分で自律‎をして行くしかないのだ。仕事をしているのだから。日々の糧 のために働いているのではなく、野垂れじにをしたのだと思って、何らかの結果を時代に残したい、少なくとも何らかの結果が生まれ続ける場にいたいと思って いた、そんな仕事をしているのだから。…自戒的に)